光の子。2005年12月02日 00:27


幼稚園のクリスマス会に登場した、
気の早いサンタクロースから子供たちは皆プレゼントをもらった。

夜、仕事から帰った僕に、
息子がそのプレゼントを嬉しそうに見せる。
イラストの入ったマグカップ。
彼は、「これは、明日の朝になってからおろすんだ」
と大人びたことを言う。

イラストの横には、手書きの文字でこう書いてあった。


ひかりのこらしく
あるきなさい


なにか、息をのむというか、打たれるものがあった。

「人にあったら元気よくご挨拶なさい」
 ではなく、
「知らない人について行ってはいけません」
 でもなく、
「人を見たら泥棒と思え」
 ですらなく、
「知らない人が近づいてきたら逃げなさい」

そんな情けない言葉が教育になってしまっている時代。
人を信じるこころは、どう養ったらいいんだろう。
サンタを信じ続けるにはどうしらいいんだろう。

それは、もう、奇跡的な力なんだろうか。


ひかりのこらしく
あるきなさい
 

胸が詰まる。

十三年に。2005年12月02日 07:44

風の色がお手伝いさせてもらったホームページ「JAL SKI 2006」内のコンテンツ『北海道を味わいつくす!』の第一弾が12月1日にアップしました。

http://www.jal.co.jp/jalski/

にアクセスして、『北海道を味わいつくす!』の窓をクリックしてね。

師走の初日は、このページの第二弾の取材で、北海道で最も古い造り酒屋のひとつである北の錦(小林酒造/小林本店)直営の酒亭を訪ねました。
「地の酒、地の鶏 ○田(まるた)七番蔵」。かれこれ10年前、こちらの酒蔵に雑誌の取材でお邪魔したことがご縁で、2年前の創業にあたり、店名のネーミミング、ロゴ制作、リーフレット、チラシから品書きなどの印刷物全般の制作をお手伝いしたのです。その時の模様は、風の色ホームページ
http://www.kazenoiro.co.jp/
の「トピックス」コーナーのバックナンバーをご参照ください。



「七番蔵」オーナー、四代目小林米孝社長に一杯やりながらお話を伺った帰り道、第一弾のページ内でご紹介したバー「ドゥ・エルミタアジュ」にご挨拶に行った。

札幌の重鎮、今年47周年を迎えた「BARやまざき」の山崎達郎さんの門下生であるバーテンダー、中田耀子さんの店。もう説明をする必要もないくらい、バー好きには知らない人はいない名店である。

北海道に移り住んできた13年前、現在の風の色のボス山野に連れられて、初めて訪れた札幌のバーが、昨年10周年を迎えた「ドゥ・エルミタアジュ」に先行する姉妹店「きゃふぇ ゑるみたあじゅ」だった。

その日、大好きだった俳優の笠智衆さんが亡くなったニュースが日本中を駆けめぐっていた。「きゃふぇ ゑるみたあじゅ」のカウンターでもそんな話題がひとしきり続いて、俳優でもある山野と追悼の献杯を捧げたのを覚えている。

そして昨晩、久しぶりにゆっくりお話させてもらった中田さんに、改めてそんな話をした。
「そうですか、13年ですか。でも、星野さんとお逢いしたのは、もっと以前のようがします。そうそう、今日『きゃふぇ ゑるみたあじゅ』の方は、ちょうど23周年を迎えたんですよ」と中田さん。

そうか、そんな記念日に中田さんを訪ねてよかった。

カウンター越しの会話とカクテルの発注は、お目当てのバーテンダーにお願いしたいもの。中田さんを含めて3名のバーテンダーが対応してくれるいつも忙しいこの店で、僕はこの夜、この店の主である中田さんに3杯のカクテルを作ってもらった。

その3杯目のカクテルを、中田さんは少し多めにシェイクして、僕のグラスと自分の小さなグラスに注いだ。そして、僕の前にグラスを置いた後、自分の小さなグラスを僕の方に掲げてこう言った。

「13年にー」




※ 改めて調べたところ、笠智衆さんが亡くなったのは、平成5年(1993年)3月16日(享年88歳)。僕が小樽に移住したのは、平成4年7月で確かに13年前なのだが、札幌で最初にバー「きゃふぇ ゑるみたあじゅ」を訪れたのは、正確には年が改まってからだった。写真は、あまりにカンゲキした僕が中田さんにお許しをいただいて、携帯電話のカメラで写した1枚。

お江戸の芸と永さんと(前編)。2005年12月04日 01:14

ブームと言われているからだけではなく、最近落語が気になっている。
北海道に惚れ込んで移り住んだものの、ときどき無性に江戸的なるものが恋しくなる自分としては、蕎麦なんかと同等の、文化への慕情みたいなものかもしれない。北海道でも頑張って落語を紹介しようとする動きがあるようだが、いかんせん集客もきびしいらしい。

この3月頃、僕も自分なりに北海道に落語を持ってくるようなことができないかと考えていた。
そして思い当たった。
「俺、噺家さん知ってるじゃないか!」
東京時代に仕事で何度かご一緒していた古今亭八朝師匠だ。

八朝さんは、名人として名高い5代目古今亭志ん生(享年83)の二男・古今亭志ん朝師匠(2001年10月1日没。享年63歳)のお弟子さん。その優れた企画力から、古今亭一門の頭脳と呼ばれている。

思い立ったら何とやら、最後にお逢いしたのはかれこれ15年くらい前なので、現在の連絡先が分からない。で、落語協会にメールをしてみたら、数日後に協会からメール、その数日後にご本人から電話がかかった。

「なんだよ、どこかいなくなっちゃったと思ってたら、北海道にいたの? え、当たり前だよ、覚えてるよ、あんたには何度も世話にになったもの。俺たちを北海道に呼んでよ、門戸開いてよ。あ、そうだ、ホシノさんに見せたいモノがあるんだ、東京来ない?」

そこからはトントン拍子だった。
八朝師匠がどうしても僕に見せたいと言ってくれたのは、芸者衆の粋なお座敷芸として発祥、志ん朝師匠が生前懸命に保存しようとしていた女性芸人さんばかりでやる「木遣り」。志ん朝師匠の意思を継ぐ形で、永六輔さんのサポートによって旗揚げとあい成った「大江戸小粋組」公演だった。

八朝師匠のご手配によって、発売、即完売となった3月29日の国立演芸場の席に僕は座っていた。司会進行は「しゃべるめくり」として永六輔さん。凄かった。ふるえた。かっこ良かった。芸人衆も、永さんも。

それから7ヶ月強。
11月9日に「大江戸小粋組」の第二回公演が、さらに11月14日には、八朝師匠の落語会に永六輔さんがゲスト出演すると聞いてまた胸が騒いだ。
かつての「六八九トリオ」(作詞家・永六輔、作曲家・中村八大、歌手・坂本九)をもじって「ひさびさの六八コンビ!」という謳い文句だ。いてもたってもいられなく、僕は再び東京へ。

実は、僕は少年時代から、永六輔に魅了され続けているのだった。

(以下、次号)

お江戸の芸と永さんと(後編)。2005年12月04日 03:16


小学生の頃、僕は毎年の夏を父親の実家である渋谷区広尾で過ごした。
そこはお茶屋さんで、叔父が毎日配達に出かけるのだが、僕はいつもその助手席でラジオを聞いていた。
TBSの「誰かとどこかで」は、特にに必ずと言っていいほど聴いていた。
永六輔さんと遠藤泰子さんをパーソナリティに現在も続くこの番組は、放送1万回を越えたと聞く。

その後、野坂昭如さん、小沢昭一さんと共に「中年御三家」としての歌手活動や、刑法175条、尺貫法を社会問題として訴えるライブ、今でも僕のシンガーベストワンである長谷川きよしさんとのジョイントコンサート等々、中高生から大学にかけて、僕は何度も何度も永さんのステージに足を運んでいる。いや、そのもっと前からNHKの「若い広場」や「テレビファソラシド」「YOU」など、永さんの手がけた番組はいつも知的で、でも軽やかに楽しくて引き込まれた。だいたい、そのもっともっと前には、すでに「こんにちは赤ちゃん」や「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星」とか、日本歌謡史に残る大作詞家として、すでに大きな足跡を残している訳で…。まったくなんて人なんだ!

文章家としての、その職人の世界、旅の世界、近年の「大往生」…。どうしてこうもすべて僕が夢中になってしまうものばかりなんだろう。僕には、永さんのその「面白さ」の質が、この世の中に存在する、数ある「面白さ」の中でも群を抜いて気が利いており、硬質で、でもときに柔らかで、知的興奮と庶民的活力がごちゃまぜなった、他に越えるもののない面白さのように思えて仕方がないのである。


今回、八朝師匠とのご縁で、再び永六輔さんの「コトバの世界」が僕の中に大きく広がっていった。

そういえば確か、と思って東京時代に勤めていた広告会社のプロフィールをひも解いたら、昭和35年の創業当初、永六輔さんや野坂昭如さん、前田武彦さんら錚々たる方々をマネージメントしていたことを確認した。

そんなこんなの想いを八朝師匠に告げると、楽屋で挨拶させてやると言ってくれた。けれど、師匠自身が「永先生」に呼ばれると足が震える。というくらいに、芸人さんたちにとっても、永六輔は神様のような存在らしいのだ。やすやすと僕などがご挨拶できる方なのかどうか…。

今回の上京の際には、古巣の会社の創業者を訪ねて、永さんが所属していた当時の話も伺った。何か、すべてが大きな所で繋がっていたようで嬉しくなって、一人で勝手にはしゃぎつつ、もしも「ご挨拶」ってことになったらどうしよう、と小心者は怯えたりもした。そうなったときは、何か差し入れるべきなのか、面識もないのに出過ぎたマネなのか、思い千々乱れるというやつである。

結局、タイミングが合わず、「小粋組」の時も「八朝の会」の時も、ご挨拶はかなわなかった。「永六輔と知り合いになってきます! 『小粋組』を北海道で僕にやらせてもらえるよう、直談判してきます!」と豪語、無理矢理一週間の出張に仕立てた僕としては、少々気まずい感じもあったのでした。

東京から戻ってきてしばらくしてから、永六輔さんに手紙をしたためた。
お逢いできるかと思って、広尾の「お茶と海苔の星野園」のお茶を用意して臨んだけれど、差し上げることができなかった、と書いた。古今亭志ん朝という現代の名人のために一肌脱いだ永さんに、その弟子である八朝師匠ですら足の震える永さんに、恋いこがれて逢えなかった永さんに、一方通行のファンレターだった。

昨日、小樽の星野家のポストに1枚の葉書。
永い片思いの相手から、1枚の葉書が届いた。

屋台のジョン・レノン。2005年12月08日 07:35

25年前の今日、第二外国語のフランス語の教室は、
ジョン・レノンの訃報で沸き返っていた。
その晩、学友のテラオと大学の近所のおでんの屋台で追悼した。

大根、ちくわぶ、コップ酒。
それから、東京、師走のすきま風。
ラジオからは終わることなくジョンの歌声が流れていた。

それから、毎年12月8日はテラオと一杯やるのが決めごとになった。
お互い就職をして忙しくなってからも、結構無理をして長く続けた。
ただ、13年前に僕が北海道小樽に移り住んでからは、
「しわす!(12月の挨拶)」と、
電話やファクシミリでの交流に留まっているけれど。

僕が道民になって3年目くらいだったろうか。
だからかれこれ10年前。
雑誌の取材で、札幌の素敵なおでん屋に出逢った。
その記事の中に、1980年の12月8日のことを書いた。
だから、ことしの12月8日はこの店に来よう、と。

僕は実践して、10年前の12月8日、「おでんの一平」のカウンターにいた。
少し酔いが廻ってきたころ電話が鳴って、
店主の谷木さんが「ホシノ君に」と受話器を手渡してくれる。
え? ここにいることは誰にも言っていないのに…。

テラオからだった。

記事を読んでくれたテラオが「たぶんあいつのことだから」と、
誌面でご紹介していた番号にかけてきたのだった。
電話の向こうから聞こえてきた声。
「やっぱりいたな。しわっす!」


今晩、テラオに25周年の電話をしよう。

追記。
12月8日は、真珠湾攻撃の日、コメディアン三波伸介の命日でもある。

訃報。2005年12月10日 11:34

昨晩は事務所の忘年会だった。
久々に人前で歌ったり,着ぐるみショーをしたこと、
面白おかしく書こうと思っていた。

痛い風の持ち主のくせに、
やっぱり朝まで飲んでしまった。
荷物を置きに会社に向かうおり、
携帯電話が鳴った。
東京の友人、イナピンから。
胸騒ぎ。
急に激しく雪が降って来た。
訃報だった。

新宿御苑前のアウトドアショップ
(今はスノーボード屋と主は言ってるが
/8月にその主とモンゴルに行った)の仲間。
タマちゃん。
ある時は金髪、ある時はモヒカン。
過激な言動の癖に,妙に優しい男。
叩いても死にそうもない奴だった。

昨年末,発病して、
今年2月、妻子とともに広島の実家に帰っていたこと。
全然知らなかった。
肺がん。
四十歳。
子供は四歳。

イナピンとサラダといっちゃんが、
これから広島に向かうという。

こんなとき、
距離がもどかしい。

無性に腹が立つ。
なぜそんなに早く逝くんだ。
ふざけるな。
お子さんには会ったことないけど、
かわいいかわいい奥さんはよく知ってる。
なぜおいてっちゃうんだ。
役割ちゃんとまっとうしろよ。


だめだ、もう書けません。

合掌。

冬の花火。2005年12月11日 00:05


地震被災の中越の町の、
祭りのドキュメンタリーをやっていた。
新成人が山車を引きながら8時間も町中を練り歩く。
大声で叫び、踊りながら。
関所のようなところで「おとな」に一升瓶を手渡し、
「ここを通してください」と。
酒を受け取ったおとなは「新成人から酒をもらったぞ!」と叫び、
これをもっておとなの仲間として認める儀式とする。

そして、祭りのクライマックスは、花火。

おとなの決意を表明する、新成人の花火。
新しい仲間として受け入れる、おとなたちの花火。

この町では、年に一度、花火にコトバを添え、思いを託して打ち上げる。

白血病で亡くなった16歳の妹を弔うため、
稼ぎのすべてを花火につぎ込んだ二十歳の兄の花火。
「この花火は俺の全財産だ!」
泣きながら叫ぶ兄。

32歳で急死した長男を弔う両親の花火。

あの地震で奇跡的に全員助かったけれど、
目前で長年住み慣れた家屋の撤去を余儀なくされた家族の花火。

この町では、花火を打ち上げる前に、
必ず託されたそれぞれの思いが読み上げられる。

夜空を見上げる町民たちは、
一発ごとに願いを添え、感謝を込め、涙を流し、笑顔が溢れ…。

こんな感動的な花火を見たことがない。
一瞬ごとに消えてしまう儚いひかりが、
これほど重たく感じられたことはない。


今朝方の訃報や、去年急逝した、年下のかつての二人の同僚のことや、
生き死ににかかわる数々の断片も思い起こされ、
涙が止まらなかった。

僕もそうしたいくつかの思いのために、
花火を打ち上げたい。

うまやのイエス。2005年12月21日 23:21


昔、幼稚園のお芝居でふられた役は、
イエス様が生まれた宿屋の主人だった。

正確には、
長旅を越えて来た、身重のマリア様を伴ったヨセフが、
部屋がいっぱいだと、いくつもの宿に門前払いされ、
その挙げ句、部屋はないけれど、馬小屋なら泊めてやる、
と言われた、その宿屋の主人である。

馬小屋で誕生したイエスは、
飼い葉桶の中に寝かせられた。

今朝、息子の幼稚園のクリスマスの会に出席したら、
同じイエスの降誕のお話で長男は羊飼いを演じていた。

僕も息子も所謂ミッション系の幼稚園なのだが、
40年もたって時間が呼び戻されるような気がした。
もの心ついてから、
自分はどうしてこんなにクリスマスに弱いんだろうと考えたけど、
やっぱりあの何年かの間、
毎日毎日朝から何度もイエス様にお祈りしたからだと思わざるを得ない。
日曜学校にも通っていたし…。

高校生の時、お祈りをしなくなった自分や、
元々お祈りをしないまわりの人のほとんどが、
それでもクリスマスに浮かれているのはまずい気がして、
聖書を朗読したり、研究したりする会に参加してみた。
聖書は読み物として最高に面白かったけれど、
どうにもしらじらしい会の雰囲気について行けなくて、
そのうち足が遠のいてしまった。

40年経っても、クリスマスには、
どうしてもわくわくどきどきしてしまう。
お父さんや恋人がサンタクロースじゃないことは知っているが、
サンタの存在は今でも信じている。
だから息子がサンタクロースを信じ続けられるためだったら、
どんなに陳腐な小芝居も打ってやる。

でも、いまだにクリスチャンではない。

光の子。2005年12月22日 06:29


幼稚園のクリスマス会に登場した、
気の早いサンタクロースから子供たちは皆プレゼントをもらった。

夜、仕事から帰った僕に、
息子がそのプレゼントを嬉しそうに見せる。
イラストの入ったマグカップ。
彼は、「これは、明日の朝になってからおろすんだ」
と大人びたことを言う。

イラストの横には、手書きの文字でこう書いてあった。


ひかりのこらしく
あるきなさい


なにか、息をのむというか、打たれるものがあった。

「人にあったら元気よくご挨拶なさい」
 ではなく、
「知らない人について行ってはいけません」
 でもなく、
「人を見たら泥棒と思え」
 ですらなく、
「知らない人が近づいてきたら逃げなさい」

そんな情けない言葉が教育になってしまっている時代。
人を信じるこころは、どう養ったらいいんだろう。
サンタを信じ続けるにはどうしらいいんだろう。

それは、もう、奇跡的な力なんだろうか。


ひかりのこらしく
あるきなさい
 

胸が詰まる。

温泉のジョン・レノン。2005年12月24日 02:35


15年ほど前、まだ都内のアパートに住む横浜人だった頃。

翌日に予定のない男同士で金曜日の酒を飲みながら、
このまま何も起きなければ、
イブは温泉もいいだろうという話になった。
その年も確かクリスマスは週末だったのである。

広告代理店でメディア担当の後輩キタゴーとむなしく盛り上がりながら、
長身で色男のくせに多分予定のないであろうテラオにも電話をして、
クリスマス仲間を増員した。
大学の同期生だったテラオは、
在学当時は鴻上尚史主宰の第三舞台(同じ頃同じ大学にいたのです)で
芝居をしており、化粧して六本木を歩いているようなとっぽい男だった。
12月23日の晩はそうして過ごした。

昨晩からの流れで、その年のイブは、
かつて僕が住んでおり、
その時はキタゴーが住んでいた、
西早稲田の6畳ひと間のアパートの部屋で目覚めた。

待ち合わせの駅に向かう前、
テラオから急きょ行けなくなったと連絡があった。
午前中に医者で痛風であることが判明して、
温泉どころではなくなったという。
完全に露天風呂モードに入っていた僕とキタゴーは、
もう酒の飲めない身体になっってしまった!
と嘆くテラオの深刻さをまったく理解しようともせず、
また、15年後に自分にも降りかかる災厄とも知る由もなく、
医者に行くのが来週だったと思えば、
今晩だけ飲んだって態勢に影響はないだろうと引き止めた。
だって、どうせ昨日までは飲んでたんでしょ、と。
しかし、日頃知っているテラオらしくなく、
その日の彼の決意は非常に固かった。

東京から列車とバスを乗り継いで4、5時間、
築百年を越える那須の「北温泉旅館」のクリスマスイブは、
だから、結局、また男二人だけになった。

渋い客室での夕食や、
プールほども広い露天風呂に浮かれながら、
否応なくハイピッチで進む酒のペース。

夕方から降り続いていた雨。

予感はあった。

ありったけ持ってきて、ずっとかけ続けていた音楽テープの中に、
かの山下達郎の名曲はあったかどうか…。
その晩「クリスマスイブ」の歌詞通りに、
雨は夜更け過ぎに雪へと変わり、
男二人の温泉のイブは最高潮に達したのである。

そうだ。
テラオを悔しがらせてやろう。

客室のテレビでやっていたのは何の映画だったか…。
とにかく、
同じ文学部演劇専攻だったテラオが、
その晩観ていないはずはない作品だった。
その映画のエンドロールが終わるか終わらないかのタイミングで、
テラオの自宅に電話をかけた。

「もしもし…」

テラオの声だ。
その瞬間、僕ら二人は

「メリークリスマス!」

とか、

「こっちはホワイトクリスマスだぜい!」

とか叫びながら、
受話器にラジカセのスピーカを押しあて音楽スタート!
曲はジョン・レノンの「Happy Christmas〜戦争は終わった」。

(12月8日付け「屋台のジョン・レノン』参照)

全一曲を再生して、そのまま電話を切った。


翌朝、二日酔いの視野に入ってきたのは予想外に積もった大雪。
まだ、早朝である。
大変だ。
こいつは早いとこ、露天に直行だ。

本州の人間、街場の人間は、ホワイトクリスマスにめっぽう弱い。

そのとき、僕はわが目を疑った。

きしんだ扉を開けて、テラオが現れた。

ジョンの歌声が効きすぎて、
テラオは未明、クルマのハンドルを握った。
北温泉に続く峠の道で雪のためにクルマを乗り捨て、
それでもここまで自力で到着した。

肩に雪を積もらせ、
白い息を吐きながらテラオが言った。

「メリークリスマス!」