叔母からの手紙。2015年11月11日 16:35



十一月一日は初秋に満百歳で逝去した祖母(亡父の母親)の四十九日だった。残念ながら諸事情により僕は東京青山にある星野家の菩提寺の納骨に参列できなかった。

数日前、その日に会えなかった亡父の妹、僕の叔母から分厚い封書が届いた。

叔母のご主人は数年前にALS 筋萎縮性側索硬化症という重い病に襲われた。

饒舌でビール党の叔父は、その凄まじいほどに進行の早い病のために、あれよと言う間に言葉が不自由になり、現在は頭と目と耳は確かだけれど、起き上がることも寝返りを打つことも言葉を発することも出来ない。

唯一動かせる足の指で特殊なパソコンに打ち込む言葉だけが、残された外界との意思の疎通方法だ。

長年俳句に親しんできた叔母に促されて、叔父は俳句に手を染めるようになった。この度届いた分厚い封書は、2013年7月から2015年10月にわたる叔父の俳句作品集だった。

俳句初心の叔父である。
その巧劣の問題ではない。

話すこととビールが何より大好きで、親族の集まりでは飲兵衛の先輩としていつも隣でご相伴した僕の叔父である。妻の(そして私の父の)実家のお茶屋や独立した子供達の自宅を設計した一級建築士の叔父である。突然想いもよらぬ残りの人生を生きざるを得なくなったひとりの男の叫びに突き上げるものを抑えきれなかった。

二年と少しの間に同人誌に掲載された叔父の膨大な俳句の中から、僕が徒然なるままに選んだ句と、ご友人、そして本人の短い文章と合わせてここに記す。

叔父はもう俳句の言葉でしかこの世の中と繋がることができない。それならば、少しでも多くの人たちに叔父の生きている証しを感じていただければと勝手に思った次第である。



呼吸器に 生かされてゐる 夜長かな

天高し 我は 丸太のやうなもの

秋深し 我が句打ち込む 足の指

手をつなぎ 歩きし日あり 十三夜



ジョンレノン 冬銀河より メッセージ

着ぶくれの 妻来てこころ あたたまる

麻痺の手に 主の御手重ねらる 聖夜



生きるための ときめき今も 春立てり

うららかや 笑顔素敵と 見舞はるる

春宵の ふと思ひゐる いのちかな

お見舞の 大きな籠の スイートピー

嗅覚を 失ひし 我春の霜

起き抜けの 新茶楽しむ 日々ありし

卯の花や 病得てより 年取らず

卯の花や 生きてゐるだけでいいと妻



梅雨しとど 山泣き海泣き 我も泣く

あぢさゐや 妻と旅せし 宝の日

打揚げ花火 腹に響くや 車椅子

娘二人の家を設計 百日紅

病床の 願ひは一つ 星飛べり



許されて するめをしやぶる 秋の宵

「あ」でも「う」でも声を出したき 夜長かな



私ごとで恐縮ではあるが、この句の作者 Aさんは、私の夫とは高校以来の親友である。一級建築士であるAさんは、現在難病のALSの闘病中。

毎日送られてくる『湧』への句稿を見ながら、夫は声をあげて泣くのである。声を出したくても、手足を動かしたくても、体中全ての筋肉が機能しない。この無念さを、悔しさを、親友として思うとき、止めどなく泣けてくるのだと思う。

微かに動くまぶたの瞬きで、文字盤を追い俳句を作り続けている。愛する家族や介護のスタッフに手篤く支えられて。

読み手である私たちは、Aさんの俳句から、感動や勇気をもらっている。




手の動かば 本を読みたし 秋灯

連弾や 娘と孫や 木の実降る

鳳仙花 餓鬼大将と言はれし日

スカーフに 秋風を連れ 妻来たる

取つておきの 年酒を妻と 酌みし日よ


初夢や 建築語る 我のゐて


手をつなぎ 狭山丘陵 十九の春

早春や 一緒に生きる これからも

桜咲く 百歳の義母 祝ふごと

病得て 新茶楽しむ 時もなく

卯の花や 施設で暮らす 義母思ふ

小説に 読み耽りし 日桜桃忌



俳句を始めて二年弱になる。身動き出来ない私の体は、読むことも書くことも話すことも不可能。妻の読み聞かせが全てになった。歳時記を覚えることにも苦戦している。俳句が出来た時には何回も繰り返し覚え、唯一僅かに動く左足の親指で「伝の心」に打ち込む。俳句は昼も夜も一日中考えている。そしてなくてはならないものになった。



父の日や 向日葵抱へ 娘来る



妻が来る いつもの道の 秋日傘

盆祭り 大きくなれと ひよこ買ふ

秋時雨 義母の訃報に 祈りけり

穏やかに 百歳の母 逝きし秋

義母逝きて 思ひの募る 夜半の秋

妻のゐて生きる意欲の出づる秋

仲秋の 古曲に義母を 偲びけり

赤蜻蛉 出会いし人の 皆優し



深紅のカウントダウン。2013年11月14日 20:29

むかし足を運んだある音楽会のパンフレットにこんなコピーが書いてあった。

“シルクハットも 薔薇の花束も 役に立たないさ”

分かったような分からないような気障な言い回しに歯が浮きながらも、なんとなく気になるコピーだった。裏を返せば、シルクハットや薔薇の花束は、人生のある局面に於いてはかなり役に立つ小道具なのだろうと、脳みその片隅にメモした。

とはいえ、むろんシルクハットの持ち合わせはないし、購入してもそうそう使い途はなさそうなので、もっぱら薔薇の花束を活用させてもらった。でも多くは自己満足に過ぎず、僕や誰かの人生を劇的に変えたりはしなかった。

この花を最初に見た時は、生まれて初めて深紅の薔薇を目にした時の数倍衝撃を受けた。よくぞこんなに鮮烈な色彩を身につけて産まれて来たものだと恐れ入った。この花を駆使して誰かの人生を変えたことはないが、この花に出逢ってから、暮れに押し進むあのせわしなさはもっと切なく、でも、人知れず哀しげな華やかさを身につけた。

東京からの便り。2013年03月18日 22:40



東京の開花と時を同じくして、東京の大学からの長い女ともだちから失恋の便りが届いた。先週誕生日を迎えたばかりの、ふたつ年下の、でも同級生である。
人の声を聴いた途端に受話器の向こうで声を潤ませやがって、ゴメンとか、声が聴きたかったとか、ありがとうとか、千々に乱れている。

その昔、彼女の結婚式の前夜、明日は新婦となるはずの彼女から電話がかかって来て、「明日はダスティン・ホフマンになってね」と言われた。もちろん映画「卒業」のベンのことを言っているのであって、さしづめ自分はエレンの役どころという意味だったんだろう。

翌日の神田教会のバージンロードで大勢の親族友人たちが見守る中、僕たちは人知れず目を見合わせてニヤリとしたけれど、僕は別段暴れたりしなかったので、エレンは映画の結末とは裏腹に無事嫁に行った。ただ彼女はその結婚にも次の結婚にも破れ、現在は立派に悪女に成長した娘と二人暮らしをしているらしい。

亡くなった大塚博堂さんに名曲「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」というのがあった。一応お断りしておくと、僕たちはお付き合いしたこともないし、だから僕は「なれなかった」訳ではない。そうした言葉遊びを理解し合える意味においては男女を超えた仲良しだったかもしれないけれど。昨年東京で二十数年ぶりに会った時、彼女の現在進行形の道ならぬ恋を聞いてはいたけどね。


なので僕は、想像を超えた彼女の悲しみぶりを、特段慰める訳でもなく黙って聞いていた。
ふと、昨年の四月六日に、彼女をよく知っているテラオやタケさんと一緒に眺めた足立区の舎人公園の櫻が浮かび、あのときの花火がふたたび僕の中で打ち上がった。

今年の四月六日も舎人公園で櫻と花火の催しがあるけれど、東京の櫻はそれまで持たないだろう。
でも多分その日に僕は彼らと酒を飲み、おそらく僕は彼女のことは話さないと思う。

彼女の嘆きがひとしきり収まった頃、四月六日まで東京の櫻を持たせて欲しい。と僕は頼んだ。

お江戸の芸と永さんと(前編)。2005年12月04日 01:14

ブームと言われているからだけではなく、最近落語が気になっている。
北海道に惚れ込んで移り住んだものの、ときどき無性に江戸的なるものが恋しくなる自分としては、蕎麦なんかと同等の、文化への慕情みたいなものかもしれない。北海道でも頑張って落語を紹介しようとする動きがあるようだが、いかんせん集客もきびしいらしい。

この3月頃、僕も自分なりに北海道に落語を持ってくるようなことができないかと考えていた。
そして思い当たった。
「俺、噺家さん知ってるじゃないか!」
東京時代に仕事で何度かご一緒していた古今亭八朝師匠だ。

八朝さんは、名人として名高い5代目古今亭志ん生(享年83)の二男・古今亭志ん朝師匠(2001年10月1日没。享年63歳)のお弟子さん。その優れた企画力から、古今亭一門の頭脳と呼ばれている。

思い立ったら何とやら、最後にお逢いしたのはかれこれ15年くらい前なので、現在の連絡先が分からない。で、落語協会にメールをしてみたら、数日後に協会からメール、その数日後にご本人から電話がかかった。

「なんだよ、どこかいなくなっちゃったと思ってたら、北海道にいたの? え、当たり前だよ、覚えてるよ、あんたには何度も世話にになったもの。俺たちを北海道に呼んでよ、門戸開いてよ。あ、そうだ、ホシノさんに見せたいモノがあるんだ、東京来ない?」

そこからはトントン拍子だった。
八朝師匠がどうしても僕に見せたいと言ってくれたのは、芸者衆の粋なお座敷芸として発祥、志ん朝師匠が生前懸命に保存しようとしていた女性芸人さんばかりでやる「木遣り」。志ん朝師匠の意思を継ぐ形で、永六輔さんのサポートによって旗揚げとあい成った「大江戸小粋組」公演だった。

八朝師匠のご手配によって、発売、即完売となった3月29日の国立演芸場の席に僕は座っていた。司会進行は「しゃべるめくり」として永六輔さん。凄かった。ふるえた。かっこ良かった。芸人衆も、永さんも。

それから7ヶ月強。
11月9日に「大江戸小粋組」の第二回公演が、さらに11月14日には、八朝師匠の落語会に永六輔さんがゲスト出演すると聞いてまた胸が騒いだ。
かつての「六八九トリオ」(作詞家・永六輔、作曲家・中村八大、歌手・坂本九)をもじって「ひさびさの六八コンビ!」という謳い文句だ。いてもたってもいられなく、僕は再び東京へ。

実は、僕は少年時代から、永六輔に魅了され続けているのだった。

(以下、次号)

そばらく。2005年11月22日 23:01

わたしの人生に於いて最も大切なもの。
ひとつは酒でしょう。
ひとつが蕎麦であることは間違いない。

もうひとつ大切な「ことば」ということで言えば、
最近、加速度的に落語の世界が大きくなりつつある。
近々この場で、先日の東京出張での「寄席」三昧について語らねばなるまい。
ま、それはまたの機会として…。

で、今夜。

蕎麦屋で、酒を飲みながら、落語を鑑賞した。
近々この場で、先日の東京出張での「そばや酒」三昧について語らねばなるまい。
ま、それは次回にゆずるとして…。

とにかく、蕎麦屋で酒を飲むのが一番好きなわたしが、
その一番の状態で、さらにその背中に一番をもひとつ載せた。
こうした状態を、盆と正月がいっぺんに…、というのだろうか。

ただ、痛い風に吹かれている今の自分が、
そんなことをしていていいのかについては、
別の機会にこの場所で語らねばなるまい。

でも、
わたしが横浜人を引退して、
小樽人になってからの13年間のうち、
おそらく12回の大晦日の夜を過ごしている、
小樽の町場の蕎麦屋さんが、
こんなに素敵なことを、

仲間と、

真面目に、

楽しそうにやってることが、
一番の酒肴だったりする。