あのひとのこと。2014年11月18日 16:41

僕が大学四年生か五年生の夏のこと。
もちろんまだ、横濱市民だったころ。

函館を訪れるたび、朝市でイカ徳利を売っていて、いきなりスペイン語で話しかけてきたりする名物おじさんの編笠屋さんに挨拶をするようになっていた。その日も「こっちへ来な」と言われて、彼の隣にぺたんと座らせてもらって、お茶などご馳走になりながら、彼と観光客との可笑しいやりとりをしばし楽しみ、自分だけちょっと別格みたいで得意な気分だった。

少しすると朝市全体がなんだか騒然としてきた。観光客のみならず、地元函館の人たちも突然右往左往し始めた。よくよく聞いてみると、高倉健さんが朝市で映画撮影をしているという。健さんをひと目見ようとする人たちが「あっちにいた」「いやこっちだ」と色めき立っていた。

僕も映画ファンであり、数年前に観た、同じ北海道を舞台にした名作『幸福の黄色いハンカチ』の “あの” 健さんをこの目で見たい気持ちは山々だったけど、元来がひねくれ者なので、どうせ行っても黒山の人だかり、群衆の中のその他大勢のひとりなんて面白くないし、第一それは健さんの撮影の邪魔になるだけじゃないか、とハスに構えて、編笠屋さんの隣にいる幸運の方を選んでそこを動かなかった。内心はちょっと残念だったのだけれど。

その晩同じ民宿に泊まっていた三重県からの女の子と、宿の夕食の後、散歩に出た。
元町界隈の観光名所、ハリストス正教会あたりを裏手に入り、昼間の観光客はここから逆に海の方を眺めることなんてしないだろうと、やっぱりひねくれ者ぶりを発揮していた。

その時、街灯もほとんどない暗い夜道を、向こうから見覚えのある顔が歩いてきた。
大人がふたり、子供がふたり。高倉健さんと田中邦衛さん。北の国からの純くん(吉岡秀隆さん)と同じドラマでいい味出していた少年だった。その他には誰もおらず、どこからどう見てもプライベートな時間を散歩に興じていたのだ。あちらは人から見つめられることに慣れている人たちだったから、他に誰もいない夜道で四人と二人が遭遇しただけのことなのに、なんとなくお互いが会釈し合うような感じになった。

僕らの表情から察したらしく、「(健さんと)写真撮ってやろうか」と切り出したのは田中邦衛さんだった。僕は「いえ、そ、そんな田中さんも一緒に」てなことを言った気もするが、「いいんだよ」と言って田中邦衛さんは僕のカメラをひょいと奪い取り、ご覧の一枚になった。



その時、函館で撮影していたのは、敬愛する山口瞳さん原作、降旗康男監督の『居酒屋兆治』(1983年11月公開)だったことを後から知り、もちろん映画館に足を運んだ。

1983年秋は、卒業論文に倉本聰さんと山田太一さんをモチーフにしたテレビドラマ論『悪人のいない風景』を書いていた頃に重なる。大学で最初に知り合った男が北海道の中湧別町(当時の実家は遠軽)の出身で、一年生の夏休みから僕は彼の実家を拠点にさせてもらい、何度も何度も北海道を旅していた。

翌1984年春に入社した広告代理店での僕の初仕事は、これも同じ1983年に放送されていた倉本聰さん脚本のテレビドラマ『昨日、悲別で』の主役 天宮良さんの男性用化粧品CMへの起用だった。その縁で倉本聰さんにはサントリーオールドのCMに出演していただくことになり、以降、公私ともに北海道(特に富良野)との縁も深まったことが、1992年の僕の北海道移住に大きな影響を与えたと言わざるを得ない。


倉本聰脚本、高倉健主演の『駅STATION』は1981年公開。増毛や雄冬を訪ねたっけ。
『網走番外地』に始まり、『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』『鉄道員』…僕らは北海道に立つ高倉健をたくさん目撃してきた。



さきほど高倉健さんの訃報に触れ、この写真のことを思い出して、クローゼットをひっくり返した。
この後、田中邦衛さんにも一緒の写真に収まってもらったのだけど、どうしても見つからない。
この時一緒にいた人たちは、高倉健さんの訃報をどう受け止めているのだろう。

健さんは風呂上がりの石鹸の香りがしたのを覚えている。


合掌。

最後の江差線。2014年04月17日 12:21



僕はまったく世に言う“鉄男”くんではないのだけれど、木古内から江差まで走るJR江差線には思い入れがある。そのきっかけはかれこれ二十年弱前までさかのぼる。そのあたりを書くと長くなるのでここでは割愛する。

三、四年前には、あるテレビ局のドラマプロデューサーを務めている友人との話で、沿線を舞台にしたドラマの草案を書いたこともある。残念ながら彼は北海道局の人間ではなかった。その江差線が五月十二日で廃止になる。そのこと自体は2012年の9月頃に発表され、片隅にとめながら、時間が過ぎて来た。

そうこうしているうち、最後の日まで一ヶ月を切ってしまった。
このところそのことがどんどん頭をもたげて来ている。
この十数年、いつかこの話をドラマ化してやろうと思い続けて来た。
ああ、なぜどこかの局に話を持ち込まなかったんだろう。

物語は鉄道が主役ではなく、その鉄路に添って流れる天の川と、その川が流れる上ノ国(かみのくに)という町が舞台である。この界隈は道内でも最も早くから開けた地域で、北海道で一番古い民家なんてのも存在する。倭人もそうだけれど、アイヌがもっとも早くから生活をしていた地域のひとつでもあるらしい。当然双方の民族のぶつかり合いも多くこの地で起きたことだろう。

函館も近くキリスト教も古くから伝来してはずだから、上ノ国界隈、天の川周辺にはたくさんの神様がせめぎあっていたに違いない。言ってみれば上ノ国は神の国ではないか。そんなこんなが物語の底流にある。

「最後の」というと、にわかに人が殺到したりする。
最後の青函連絡船。最後のブルートレイン。最後の…
関わりも、思い入れも、世話になった現実もないのに、暇にあかせて「最後の」を見てやろう、乗ってやろうという輩が三日も四日も前から徹夜で並んだりする。そのお陰で、たとえば連絡船の船長の家族が、お父さんの最後の勇姿を目撃出来なくなったりする。

こんなに人が集うなら、辞めることはなかったのではないか。
そんな錯覚に陥ったりもする。本当に惜しむ人のために野次馬は遠慮しろ!

そんなことを思いながら、江差線の最後を見届けたいと思う自分がいる。
人様を野次馬呼ばわりしたところで、じゃあ自分はどうなのさ、と自己嫌悪がやって来る。

しばらく葛藤が続きそうだ。

http://jr.hakodate.jp/event/esashi/
http://amanogawa.donan.net
http://article.wn.com/view/WNATcc1ec4a14dbaa9c5b878dbb4ad177d4e/


幕を引くということ。2014年04月01日 11:01

三十二年と聞いて改めて勘定してみると、僕が最初の就職で東京の広告代理店に入社して今年でちょうど三十年なので、昨日終了した番組が始まったのは、その二年前ということになる。

当時、僕の会社ではタモリさんと日野皓正さんを起用した男性化粧品のCMシリーズを製作しており、そのブランドから発売される新商品のために、新しいキャラクターを起用した新しいCMを製作することになった。そのチームの末端にいた僕も企画提案に参画させてもらったのだけど、長い長い紆余曲折の果てに、なんと僕が推薦した候補が最終のプレゼンテーションで決定してしまった!

前年に放映されていたドラマ『昨日、悲別で』(倉本聰脚本)に主演した天宮良さんだったのだけど、まだ彼はそのドラマを観た人にしか認知されていない頃で、文学部演劇専攻で倉本聰さんと山田太一さんをテーマに卒業論文を書いた僕くらいしかその存在をしらなかった。実際、上司にもクライアントにも天宮良を知る人は居なかったのだ。

新作CMは世界の日野皓正と新人天宮良の出演で製作することになり、何年も日野さんとコンビを組んでもらっていたタモリさんには降板していただくことになった。あの時の緊張を覚えている。お前がタモリさんに引導を渡したのだから、とタモリさんの所属事務所である田辺エージェンシーに、部長と課長のお伴をして降板のお願いに行ったのだった。

新しいものが華々しく生まれる背後に、こうした地味で胃の痛くなるような作業が存在するのだということを社会人一年生の僕は経験させてもらった。

僕も自分が担当した番組の終焉に立ち会ったことがある。
生命あるものには必ず終わりがやって来るということ。
その瞬間をどのように迎えるか。
どう心構えをするのか。

弥生三月別れの季節を乗り越えて、
四月卯月は出逢いの季節になるのか。

百ひく一は白。2014年03月18日 22:49



父の転勤先の神戸で生まれた僕が横濱に住むようになったのは四歳の頃で、今からちょうど半世紀前のことになる。

父の実家は東京は渋谷区広尾で、今でもお茶屋を営んでいる。
東京タワーは1958年、僕の生まれる前年の開業で、昨2013年に55周年を迎えた。
同じく昨2013年9月で43年の歴史を閉じたというタワー内の施設『蝋人形館』は、だから1970年、僕が11歳の年のオープンだった。

祖母に東京タワーに連れて行ってもらった帰り途、お昼に何を食べたい?と訊かれて “うなぎ” と答えたのは神戸から戻ったばかりの頃と記憶しているから蝋人形館の出来るだいぶ前だと思う。

四、五歳の子供が「うなぎを食べたい」と言ったのが、気っ風のいい祖母の琴線に触れたのか、頼もしい孫と思われたのか、祖母はたいそう喜んで僕を古い江戸の鰻屋に連れて行った。そこでご馳走になったのが、ご飯、うなぎ、ご飯、うなぎ、と二段になっている所謂 “中割れ” という鰻重だった。
おそらく量だって大人のそれで、それをまた平らげてしまった逸話は、しばらくは幼子の伝説のように、折りに触れて語られる祖母の自慢話になった。

その僕が三十になっても四十になっても、広尾を訪ねると祖母はこっそり僕を片隅に呼び寄せ、小遣いを握らせた。「ばあちゃん、もう僕は四十過ぎだよ」と受け取りを固辞しようものなら、眉間にしわを寄せて怒られた。「あんた、いくつになってもあたしの孫でしょ!」

九十過ぎまでお茶屋の店番に立っていた祖母は、自分が七十のときも、八十のときも、九十になっても、「あんた、あたしいくつになったと思うの? ◎十よ、◎十!」というのが口癖だった。

その祖母も数年前から施設のお世話になっている。
最初の頃、見舞いに行くと、いつものようにごそごそと懐をまさぐって、財布を取り出そうとする。九十年もそうしてきたのに、今、祖母の懐に財布は収まっていない。小遣いを渡そうとしても渡せないことを悟ると、もの凄く悔しそうに涙を流す。


さすがに初孫の僕のことも分からなくなり始めた頃、そう思って接していると、突然、北海道は遠いだろう。今日来たのか。今日はウチ(広尾)に泊まって行くのか。夕食は一緒に食べられるのか、と訪ねられたりしてハッとする。傍らに居る叔父や叔母にこの後の(自分も含めた)段取りを尋ねる。突然、そのヒゲはなかなか塩梅がよくて男前だ、というようなことをつぶやいたりする。

初孫はおろか、わが息子やわが娘を承知しているか定かでない様子のときでも、新聞やチラシを見せると、難しい漢字も淀みなく読み上げる。百人一首の上の句を見せると、すらすらと下の句を諳んじてみせる。

その祖母が今日、九十九歳の誕生日を迎えた。
僕は残念ながら駆け付けることが出来なかった。

何年か前、祖母がすこぶる調子が良さそうな日があった。母の一周忌か三回忌で上京した際だと思う。快晴の日の夕暮れ。

僕は祖母に、また東京タワーに連れて行ってくれ、と頼んだ。その帰りにまた “中割れ” が食べたい、とせがんだ。祖母は暮れなずむ施設の窓外を車椅子から見やりながら、今日はもう日が落ちるから、また今度にしよう、と僕に向き直りながらそう告げた。



今年の三月十一日に。2014年03月11日 12:03



誕生の歓びを
誰もが感じたことがあるから
生命はいとおしく 
召されるのは哀しいと知っています

僕らは歳月と共に鈍感になって
そうした機微は 希薄になっていきます

せつなく 苦しいことばかりあるけれど
なんとか切り抜けて 一年生きてきて
ほっとため息をつく
そんな句読点みたいなのが誕生日

やっぱり がんばってみて 良かったね
たまには 自分を褒めてあげよう って
小さく 打ち上げてみる のが誕生日

生命のいとしさと 召される哀しさを
あらためて心に刻むのが誕生日

あなたが 誕生日の意味を 思い出させてくれた
五十を過ぎた僕を 大真面目に祝ってくれた

いくつになっても 照れたりなんかせず
正々堂々 公明正大に 謳うように
祝ったり 祝われたりしてもいいんだ と

二月の末の あの日から 今日まで
この瞬間も 去年も おととしも
僕の魂は 震えっぱなしです

だから今日は 照れず 悪びれず
正々堂々と あなたの句読点を 打ち上げます 

そっちから こちらの様子は 見えてるのかな
テレビでは 朝から ずっと
今日が 特別な日 だと告げています

五十一回目の誕生日 おめでとう!

(四年前、僕の五十一回目の誕生日に
 あなたがくれたケーキです)

人生 邂逅し 
開眼し 瞑目す


二十年の祭り。2012年07月02日 09:58



二十年前の今日、横濱から小樽に住民票を移した。
今住んでいる家の鍵を手に入れた日でもある。

横濱東京方面の長い友人の多くは、どうせ少ししたら尻尾を巻いて帰って来るに違いないと噂していたらしい。聞こえて来る噂は言わせておけばいい、と思いつつも、鼻を明かしてやろうなんて意地になって住み続けたこと自体が子供っぽい。

寄付がまわって来る、一番地元の祭りは熊碓神社。正月も元旦の午前中しか社の開いていない、小さな小さな神社だ。でも、この神社の祭りはなるべく欠かさない。地元の祭りだからだ。一礼二拍手一礼して振り返った時に飛び込んで来る風景が好きだ。だから必ず、まずお参りしてから縁日を冷やかす。

今日から、小樽市民二十一年目に突入。
今日から、小樽市民二十一年目に突入。


海老澤先生と僕4(完結編)2012年06月03日 00:33


    (サントリー音楽文化展1991 モーツァルト没後200年記念 図録)

海老澤先生のお伴をしたヨーロッパの旅から帰って、僕らは早速図録編集や、ミュージアムグッズのポスター、ポストカード、テレホンカード等の制作作業に取りかかった。さらに展覧会全般の広報活動、CM制作、オープニングセレモニーの進行から、ウィーン学友協会やザルツブルグ国際モーツァルテウム財団から借り受ける国宝級の出展物への保険などの事務作業、実際の展示作業など、ありとあらゆる業務に携わった。

オープニングを含む会期中には、ザルツは「大きな朝食」のアンガーミューラー博士やウィーン学友協会の学術部長らが立ち会いに来日した。海老澤先生、そしてアンガーミューラーやオーストリア駐日大使や主催のVIPがテープカットするセレモニーは僕が台本を書いて現場進行もした。

関連イベントとして展覧会期間中にサントリーホールで開催されたマーラーのシンフォニーの演奏会や、海老澤先生を中心に、マーラーゆかりの指揮者、故朝比奈隆さん、作曲家の三枝成彰さんらを招いたシンポジウムのディレクションもした。

とある日は皇太子殿下が来場されることになって、SPを伴い「赤坂御所を何時何分何秒発、どこぞの角を何時何分何秒に曲がり、このエレベータの右から何番目で時何分何秒に昇降」みたいなものものしい戒厳令のような状況下、出展物をひとつひとつマンツーマンで皇太子にご説明し館内をまわられたのも海老澤先生だった。

海老澤先生にお供し、ザルツブルグで「大きな朝食」に加えさせてもらった前段の旅があったことが、どれだけそうした諸々にプラスに作用したことか。

1989年4月4日からの会期中は毎日サントリー美術館に詰めて、一日二回会場内で行われる生演奏のアテンドや、基本的な運営作業、入場者数の把握やグッズ販売、その売り上げ管理などに追われた。日常の広告代理店業務と別個にである。

旅から半年後の1989年5月、1月半続いた展覧会最終日、並みいる内外のVIPに交ざって、僕はフェアウェルパーティに出席させていただいた。帰国以降のさまざまな場面を考えれば、旅の最中の「大きな朝食」や「チェコのディスコホテルの一件」が、いかにそれぞれの立ち位置を度外視した破格な出来事であったかを思い知らされた。

けれどパーティの席上、参列者の中で明らかに格下な僕にまたしても気を使い、世界のエビサワが話しかけ、VIPたちに水を向けてくださった。「ホシノさん、ホシノさんもよくがんばりましたね。縁の下の貴方の活躍なくして、この展覧会の成功はありませんでしたよ。欲を言えば、ホシノさんはもう少し語学(ドイツ語も英語も流暢にお話しになる先生に!)を勉強するといいですね」

(あ、はい、ブイヨン・ミト・アイ!)

その翌日、展覧会場の撤収中に僕はストレス性の急性胃腸炎と過労で緊急入院した。



マーラー展から三年後、僕は当時の会社を離れると同時に所帯を持つことになった。件の展覧会シリーズの10年は、ほぼ僕の在籍期間と重なっていた。社長の来賓挨拶以下、その会社の社員食堂化するのが通例の披露宴に、僕は今後もずっと個人的に付き合って行きたいと思うごくわずかの社員しか案内しなかった。

その時はまだ、その数ヶ月後に自分が北海道民になろうとは、僕自身が微塵も考えてはいなかったけれど。

祝電披露で、倉本聰さんのCM制作で知り合った富良野のくまげらの店主森本毅さんの文面が圧倒的に素晴らしく、かなり僕を危うくしていた。それを隠すために能面になって続く電報を聞いていると、しばらくして耳に入って来た言葉_。

「ホシノさん、あなたと一緒にヨーロッパへマーラー詣でに行ったことが思い出されます。これはささやかな わたくしからのお祝いです。おめでとう」

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ピアノとオーケストラのためのロンド イ長調 K.386
第9葉(第155小節〜第171小節)自筆譜復刻版
海老澤敏 所蔵


これで僕はとどめを刺され、ひな壇の上で完全に駄目になった。
隣のひとをさしおいて、かっこ悪いっちゃない。

いや、それから20年以上経った今これを書いていて、突然、鼻の付け根の奥のあたりが渋いようなぬるいような危ない感じに襲われてしまっている。画面が滲んで来る自分がいる。

2007年6月2日に帯広で開催された北海道モーツァルト協会『祝祭モーツァルト(帯広とかちプラザ)』をひょんなことからお手伝いをした際に、実にお久しぶりに先生と秘書の渡辺千栄子さんにお目にかかった。

その再会のお陰で、2008年3月28日にホテルオークラで開かれた『海老澤敏先生の文化功労者顕彰をお祝いする会』にお招きいただき、飛行機に乗って会場のホテルオークラに飛んで行った。

それらの時も、あのフェアウェルバーティ同様、顔ぶれからして明らかに場違いな自分自身を自覚するのだけど、直截言葉を交わさせていただく以前に、遠くから先生の姿を目にしただけで、今と同様に鼻の付け根の奥のあたりが渋いようなぬるいような危ない感じに襲われてしまうのである。


そのお祝いの会の際の参列者への記念品がCD『モーツァルト生誕250年祝年 小川京子 二つのモーツァルト』だった。そうして6月3日日曜日の札幌コンサートホールKITARA 小ホールのプログラムは、
『小川 京子 Piano Recital 〜リラの花咲くときに〜』(16時〜)

海老澤先生がプレトークでステージに立たれるという。

先生の奥様の小川京子さんは、いまやわが町となった小樽のご出身であることを、お目にかかって四半世紀経って先日別の方から教えていただいた。恥ずかしながら、僕は知らなかった。なんという…。

先生、明日、KITARAへ。
                            (終)


海老澤先生と僕12012年06月02日 13:45



1988年10月、僕は当時の国立音楽大学総帥にしてモーツァルトの世界的研究家、海老澤敏教授のお供をしてヨーロッパを二週間強、旅した。

当時10年間続いた「生演奏のある展覧会『サントリー音楽文化展』」シリーズの、僕はスタッフの一員だった。89年春に約2ヶ月に渡って開催されるマーラー展の図録(上写真)やミュージアムグッズ制作のための写真撮影で、カメラマンはサントリー宣伝部制作課で、かの開高健さん、山口瞳さんらの紀行に同行しシャッターを切った巨匠、福井鉄也さんだ。

海老澤教授(は総合監修)、福井カメラマン(スタッフとはいえクライアント!)共に当時五十代後半の脂の乗り切った御大であり、僕は20代最後の年の若造だった。初めての海外出張であり、僕のプレッシャーたるやいかばかりかご想像いただきたい!


海老澤先生の凄さを分かりやすく説明すると、オーストリアのザルツブルグに国際モーツァルテウム財団というモーツァルト研究の総本山があり、世界中のモーツァルト研究家の中から、これは、という人だけがメンバーとして迎えられるのだけど、海老澤先生は全世界で20数名しかいないメンバーの一人に選出されているお方なのだ! 嗚呼、思い出すだけで胃が痛くなる。

現地在住の日本人に通訳と運転をお願いして、ウィーンから旅はスタートしたのだけれど、日本から同じ目的地(ウィーン)に向かうのに、先生はファーストクラス、福井さんはビジネスクラス、僕は…もちろんエコノミーでした。(続く)



温泉のジョン・レノン。2005年12月24日 02:35


15年ほど前、まだ都内のアパートに住む横浜人だった頃。

翌日に予定のない男同士で金曜日の酒を飲みながら、
このまま何も起きなければ、
イブは温泉もいいだろうという話になった。
その年も確かクリスマスは週末だったのである。

広告代理店でメディア担当の後輩キタゴーとむなしく盛り上がりながら、
長身で色男のくせに多分予定のないであろうテラオにも電話をして、
クリスマス仲間を増員した。
大学の同期生だったテラオは、
在学当時は鴻上尚史主宰の第三舞台(同じ頃同じ大学にいたのです)で
芝居をしており、化粧して六本木を歩いているようなとっぽい男だった。
12月23日の晩はそうして過ごした。

昨晩からの流れで、その年のイブは、
かつて僕が住んでおり、
その時はキタゴーが住んでいた、
西早稲田の6畳ひと間のアパートの部屋で目覚めた。

待ち合わせの駅に向かう前、
テラオから急きょ行けなくなったと連絡があった。
午前中に医者で痛風であることが判明して、
温泉どころではなくなったという。
完全に露天風呂モードに入っていた僕とキタゴーは、
もう酒の飲めない身体になっってしまった!
と嘆くテラオの深刻さをまったく理解しようともせず、
また、15年後に自分にも降りかかる災厄とも知る由もなく、
医者に行くのが来週だったと思えば、
今晩だけ飲んだって態勢に影響はないだろうと引き止めた。
だって、どうせ昨日までは飲んでたんでしょ、と。
しかし、日頃知っているテラオらしくなく、
その日の彼の決意は非常に固かった。

東京から列車とバスを乗り継いで4、5時間、
築百年を越える那須の「北温泉旅館」のクリスマスイブは、
だから、結局、また男二人だけになった。

渋い客室での夕食や、
プールほども広い露天風呂に浮かれながら、
否応なくハイピッチで進む酒のペース。

夕方から降り続いていた雨。

予感はあった。

ありったけ持ってきて、ずっとかけ続けていた音楽テープの中に、
かの山下達郎の名曲はあったかどうか…。
その晩「クリスマスイブ」の歌詞通りに、
雨は夜更け過ぎに雪へと変わり、
男二人の温泉のイブは最高潮に達したのである。

そうだ。
テラオを悔しがらせてやろう。

客室のテレビでやっていたのは何の映画だったか…。
とにかく、
同じ文学部演劇専攻だったテラオが、
その晩観ていないはずはない作品だった。
その映画のエンドロールが終わるか終わらないかのタイミングで、
テラオの自宅に電話をかけた。

「もしもし…」

テラオの声だ。
その瞬間、僕ら二人は

「メリークリスマス!」

とか、

「こっちはホワイトクリスマスだぜい!」

とか叫びながら、
受話器にラジカセのスピーカを押しあて音楽スタート!
曲はジョン・レノンの「Happy Christmas〜戦争は終わった」。

(12月8日付け「屋台のジョン・レノン』参照)

全一曲を再生して、そのまま電話を切った。


翌朝、二日酔いの視野に入ってきたのは予想外に積もった大雪。
まだ、早朝である。
大変だ。
こいつは早いとこ、露天に直行だ。

本州の人間、街場の人間は、ホワイトクリスマスにめっぽう弱い。

そのとき、僕はわが目を疑った。

きしんだ扉を開けて、テラオが現れた。

ジョンの歌声が効きすぎて、
テラオは未明、クルマのハンドルを握った。
北温泉に続く峠の道で雪のためにクルマを乗り捨て、
それでもここまで自力で到着した。

肩に雪を積もらせ、
白い息を吐きながらテラオが言った。

「メリークリスマス!」

冬の花火。2005年12月11日 00:05


地震被災の中越の町の、
祭りのドキュメンタリーをやっていた。
新成人が山車を引きながら8時間も町中を練り歩く。
大声で叫び、踊りながら。
関所のようなところで「おとな」に一升瓶を手渡し、
「ここを通してください」と。
酒を受け取ったおとなは「新成人から酒をもらったぞ!」と叫び、
これをもっておとなの仲間として認める儀式とする。

そして、祭りのクライマックスは、花火。

おとなの決意を表明する、新成人の花火。
新しい仲間として受け入れる、おとなたちの花火。

この町では、年に一度、花火にコトバを添え、思いを託して打ち上げる。

白血病で亡くなった16歳の妹を弔うため、
稼ぎのすべてを花火につぎ込んだ二十歳の兄の花火。
「この花火は俺の全財産だ!」
泣きながら叫ぶ兄。

32歳で急死した長男を弔う両親の花火。

あの地震で奇跡的に全員助かったけれど、
目前で長年住み慣れた家屋の撤去を余儀なくされた家族の花火。

この町では、花火を打ち上げる前に、
必ず託されたそれぞれの思いが読み上げられる。

夜空を見上げる町民たちは、
一発ごとに願いを添え、感謝を込め、涙を流し、笑顔が溢れ…。

こんな感動的な花火を見たことがない。
一瞬ごとに消えてしまう儚いひかりが、
これほど重たく感じられたことはない。


今朝方の訃報や、去年急逝した、年下のかつての二人の同僚のことや、
生き死ににかかわる数々の断片も思い起こされ、
涙が止まらなかった。

僕もそうしたいくつかの思いのために、
花火を打ち上げたい。