屋台のジョン・レノン。2005年12月08日 07:35

25年前の今日、第二外国語のフランス語の教室は、
ジョン・レノンの訃報で沸き返っていた。
その晩、学友のテラオと大学の近所のおでんの屋台で追悼した。

大根、ちくわぶ、コップ酒。
それから、東京、師走のすきま風。
ラジオからは終わることなくジョンの歌声が流れていた。

それから、毎年12月8日はテラオと一杯やるのが決めごとになった。
お互い就職をして忙しくなってからも、結構無理をして長く続けた。
ただ、13年前に僕が北海道小樽に移り住んでからは、
「しわす!(12月の挨拶)」と、
電話やファクシミリでの交流に留まっているけれど。

僕が道民になって3年目くらいだったろうか。
だからかれこれ10年前。
雑誌の取材で、札幌の素敵なおでん屋に出逢った。
その記事の中に、1980年の12月8日のことを書いた。
だから、ことしの12月8日はこの店に来よう、と。

僕は実践して、10年前の12月8日、「おでんの一平」のカウンターにいた。
少し酔いが廻ってきたころ電話が鳴って、
店主の谷木さんが「ホシノ君に」と受話器を手渡してくれる。
え? ここにいることは誰にも言っていないのに…。

テラオからだった。

記事を読んでくれたテラオが「たぶんあいつのことだから」と、
誌面でご紹介していた番号にかけてきたのだった。
電話の向こうから聞こえてきた声。
「やっぱりいたな。しわっす!」


今晩、テラオに25周年の電話をしよう。

追記。
12月8日は、真珠湾攻撃の日、コメディアン三波伸介の命日でもある。

お江戸の芸と永さんと(後編)。2005年12月04日 03:16


小学生の頃、僕は毎年の夏を父親の実家である渋谷区広尾で過ごした。
そこはお茶屋さんで、叔父が毎日配達に出かけるのだが、僕はいつもその助手席でラジオを聞いていた。
TBSの「誰かとどこかで」は、特にに必ずと言っていいほど聴いていた。
永六輔さんと遠藤泰子さんをパーソナリティに現在も続くこの番組は、放送1万回を越えたと聞く。

その後、野坂昭如さん、小沢昭一さんと共に「中年御三家」としての歌手活動や、刑法175条、尺貫法を社会問題として訴えるライブ、今でも僕のシンガーベストワンである長谷川きよしさんとのジョイントコンサート等々、中高生から大学にかけて、僕は何度も何度も永さんのステージに足を運んでいる。いや、そのもっと前からNHKの「若い広場」や「テレビファソラシド」「YOU」など、永さんの手がけた番組はいつも知的で、でも軽やかに楽しくて引き込まれた。だいたい、そのもっともっと前には、すでに「こんにちは赤ちゃん」や「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星」とか、日本歌謡史に残る大作詞家として、すでに大きな足跡を残している訳で…。まったくなんて人なんだ!

文章家としての、その職人の世界、旅の世界、近年の「大往生」…。どうしてこうもすべて僕が夢中になってしまうものばかりなんだろう。僕には、永さんのその「面白さ」の質が、この世の中に存在する、数ある「面白さ」の中でも群を抜いて気が利いており、硬質で、でもときに柔らかで、知的興奮と庶民的活力がごちゃまぜなった、他に越えるもののない面白さのように思えて仕方がないのである。


今回、八朝師匠とのご縁で、再び永六輔さんの「コトバの世界」が僕の中に大きく広がっていった。

そういえば確か、と思って東京時代に勤めていた広告会社のプロフィールをひも解いたら、昭和35年の創業当初、永六輔さんや野坂昭如さん、前田武彦さんら錚々たる方々をマネージメントしていたことを確認した。

そんなこんなの想いを八朝師匠に告げると、楽屋で挨拶させてやると言ってくれた。けれど、師匠自身が「永先生」に呼ばれると足が震える。というくらいに、芸人さんたちにとっても、永六輔は神様のような存在らしいのだ。やすやすと僕などがご挨拶できる方なのかどうか…。

今回の上京の際には、古巣の会社の創業者を訪ねて、永さんが所属していた当時の話も伺った。何か、すべてが大きな所で繋がっていたようで嬉しくなって、一人で勝手にはしゃぎつつ、もしも「ご挨拶」ってことになったらどうしよう、と小心者は怯えたりもした。そうなったときは、何か差し入れるべきなのか、面識もないのに出過ぎたマネなのか、思い千々乱れるというやつである。

結局、タイミングが合わず、「小粋組」の時も「八朝の会」の時も、ご挨拶はかなわなかった。「永六輔と知り合いになってきます! 『小粋組』を北海道で僕にやらせてもらえるよう、直談判してきます!」と豪語、無理矢理一週間の出張に仕立てた僕としては、少々気まずい感じもあったのでした。

東京から戻ってきてしばらくしてから、永六輔さんに手紙をしたためた。
お逢いできるかと思って、広尾の「お茶と海苔の星野園」のお茶を用意して臨んだけれど、差し上げることができなかった、と書いた。古今亭志ん朝という現代の名人のために一肌脱いだ永さんに、その弟子である八朝師匠ですら足の震える永さんに、恋いこがれて逢えなかった永さんに、一方通行のファンレターだった。

昨日、小樽の星野家のポストに1枚の葉書。
永い片思いの相手から、1枚の葉書が届いた。

十三年に。2005年12月02日 07:44

風の色がお手伝いさせてもらったホームページ「JAL SKI 2006」内のコンテンツ『北海道を味わいつくす!』の第一弾が12月1日にアップしました。

http://www.jal.co.jp/jalski/

にアクセスして、『北海道を味わいつくす!』の窓をクリックしてね。

師走の初日は、このページの第二弾の取材で、北海道で最も古い造り酒屋のひとつである北の錦(小林酒造/小林本店)直営の酒亭を訪ねました。
「地の酒、地の鶏 ○田(まるた)七番蔵」。かれこれ10年前、こちらの酒蔵に雑誌の取材でお邪魔したことがご縁で、2年前の創業にあたり、店名のネーミミング、ロゴ制作、リーフレット、チラシから品書きなどの印刷物全般の制作をお手伝いしたのです。その時の模様は、風の色ホームページ
http://www.kazenoiro.co.jp/
の「トピックス」コーナーのバックナンバーをご参照ください。



「七番蔵」オーナー、四代目小林米孝社長に一杯やりながらお話を伺った帰り道、第一弾のページ内でご紹介したバー「ドゥ・エルミタアジュ」にご挨拶に行った。

札幌の重鎮、今年47周年を迎えた「BARやまざき」の山崎達郎さんの門下生であるバーテンダー、中田耀子さんの店。もう説明をする必要もないくらい、バー好きには知らない人はいない名店である。

北海道に移り住んできた13年前、現在の風の色のボス山野に連れられて、初めて訪れた札幌のバーが、昨年10周年を迎えた「ドゥ・エルミタアジュ」に先行する姉妹店「きゃふぇ ゑるみたあじゅ」だった。

その日、大好きだった俳優の笠智衆さんが亡くなったニュースが日本中を駆けめぐっていた。「きゃふぇ ゑるみたあじゅ」のカウンターでもそんな話題がひとしきり続いて、俳優でもある山野と追悼の献杯を捧げたのを覚えている。

そして昨晩、久しぶりにゆっくりお話させてもらった中田さんに、改めてそんな話をした。
「そうですか、13年ですか。でも、星野さんとお逢いしたのは、もっと以前のようがします。そうそう、今日『きゃふぇ ゑるみたあじゅ』の方は、ちょうど23周年を迎えたんですよ」と中田さん。

そうか、そんな記念日に中田さんを訪ねてよかった。

カウンター越しの会話とカクテルの発注は、お目当てのバーテンダーにお願いしたいもの。中田さんを含めて3名のバーテンダーが対応してくれるいつも忙しいこの店で、僕はこの夜、この店の主である中田さんに3杯のカクテルを作ってもらった。

その3杯目のカクテルを、中田さんは少し多めにシェイクして、僕のグラスと自分の小さなグラスに注いだ。そして、僕の前にグラスを置いた後、自分の小さなグラスを僕の方に掲げてこう言った。

「13年にー」




※ 改めて調べたところ、笠智衆さんが亡くなったのは、平成5年(1993年)3月16日(享年88歳)。僕が小樽に移住したのは、平成4年7月で確かに13年前なのだが、札幌で最初にバー「きゃふぇ ゑるみたあじゅ」を訪れたのは、正確には年が改まってからだった。写真は、あまりにカンゲキした僕が中田さんにお許しをいただいて、携帯電話のカメラで写した1枚。

ホテルドローム。2005年11月29日 23:18

今僕が北海道に住んでいるきっかけのひとつは、
藤門弘さんの存在かもしれない。
知る人ぞ知る、アリスファームのオーナー。夫人は宇土巻子さん。
1974年に岐阜県・有巣の里で「田園生活」を提唱し、家具工房、染織工房、農業などを営む「アリス・ファーム」を設立。10年後、新天地を求め北海道仁木町に移住。
外遊びの強者であり、すごい仲間がたくさんいて、自らの体験を本に書く男。

一方、話は変わるが、10年前のオープンから一度は泊まってみたかった赤井川村のホテル、ドローム。
鉱山の跡地の百万坪の敷地。まわりには白樺の林にヤマメが泳ぐ白井川。そこに鉱山時代の古材と石で造った山小屋風の建物。館内には北欧の古い農具や家具。部屋数11の小さな宿。
風の色でも何度かロケで使わせてもらっていた。

昨年末、藤本美貴さんの写真集の撮影場所にドロームの暖炉を提案しようとしたのだが、営業が停止されていた。やがて、風の色の若頭・宮嶋総士のリサーチで、ドロームの所有者が藤門さんに変わっていたことが判明。僕の2つのあこがれがひとつに合体したのだ!

かくして今年2月15日からドロームは営業再開。
藤本ミキティの撮影も無事終了。僕は現場に行けなかったのだが、
藤門さんは終始撮影にお付き合いくださったと聞いていた。

写真集が東京の出版社から送られてきて、ソーシがそれを藤門さんに届けるという。僕は「お願い、連れて行って!」と懇願した。

3月12日、広大な敷地の赤井川村側にあるアリスファーム本部、藤門さんのご自宅をソーシと共に訪ねた。自ら広い広いご自宅を案内をしていただいただけでも舞い上がっていたのに、その後で目がつぶれそうな幸運に遭遇した。しばらく休止していたが今年から再開するという、アリスファーム恒例の「クロカンスキー大会」のお誘いを受けたのだ。その名前からすると体育会系の催しの様だが、要は前夜祭と称した宴こそがメインイベントであるらしい。
顧客とうちうちのお仲間だけに声をかけるということだが、今年の参加者を伺って三たび仰天! 一般の方に混ざって、カヌーイスト・野田知祐、モンベル社長・辰野勇、作家・夢枕獏…。

野田知祐さんの著書は、僕の北海道行きを激しく後押しした。
一度、番組撮影でいらしていた野田さんと、清流・歴舟川を一緒に(といっても、もちろんほかに大勢いたのだが)カヌーで下り、酒を飲みながら話をしたことがある。このときも、今は絶滅した「男臭い男」に雷鳴に打たれたようになり、僕はコチコチに緊張した。素敵だった。



3月26日の晩、ホテルドロームで宇土巻子さんの手による、地元の食材を使った感動的にうまい料理をいただきながら、野田さんや辰野さんや夢枕さんと同じ酒を飲んでいた。まさにドローム(夢)のようだった。

今日のドロームはそれ以来だった。
撮影の合間を縫って、久しぶりにお逢いした藤門さんに、8月に行った内モンゴルの話などをした。藤門さんは、かつて40日かけて外モンゴルの川をカヌーで下ったときのことを教えてくれた。

僕は調子に乗って、かつて東京の広告代理店にいた時分に携わっていたTBSのドキュメンタリー番組のプロデューサーから言われたことを話した。僕がその会社を離れて北海道小樽に移り住むことを告げた時のこと。
そのプロデューサーは小樽出身で、小樽に行くのなら、近くの仁木(余市と言ったかもしれない)という町に藤門弘という男がいるから、自分から聞いたと言って訪ねたらいい。面白くて凄い奴だから、何か力になってくれるかもしれない、と。

当時の僕に、それを実践する勇気はなかった。
あんなに憧れていたのに。
今日は、そのことも藤門さんご本人にお話しした。

あの時、まだ、なにを生業にするかも決まっていないのに、
ただ小樽に住むことだけを決めてしまった時、
もしも言われた通り藤門さんを訪ねていたら、
その後の流れは変わっていたかな。

とにかく、それから13年経って、
僕はようやく藤門さんに逢うことができた。

(写真は夏のドローム。今はすでに雪に埋もれている)

草原の人になる32005年09月19日 05:42

さて、この中に日本人は何人?

内モンゴルの「家族の肖像」。

おばあちゃんが素敵でしょう? 
もちろんこの人は日本人じゃありませんよ。

お嫁さんが素朴でしょう? 
この二人も日本人じゃないです。

子供たちが可愛いでしょう? 
むろん現地の子供ですよ。

ということは?

今は次男が継いでいる、長男バイさんの実家前にて。

草原の人になる22005年09月19日 04:32

ある朝早く、草原の家のおばあちゃん(バイさんのお母さん)が作ったモンゴルの衣装を借りて撮影。「休め」の姿勢で馬に乗っているのがバイさんです。

文章を書いたり、広告を企画したり、北海道に於ける撮影(CMや映画やドラマ等)のコーディネイトが生業の僕ですが、来夏あたり、密かにモンゴルの旅をコーディネイトできないかなあ、と考えたのが今回の旅の発端なのです。だから、そのときのために、こんな写真を撮った訳。で、旅のタイトル or イメージコピーが「草原の人になる」。いかがでしょう?

草原の人になる。2005年09月06日 23:49

旅先で誕生日を迎えた。
内モンゴルの首府、フフホトにて。
横浜人の僕は二十歳と三十歳の誕生日を北海道で迎えた。で、今僕は小樽の住民になって13年になる。ただ今回の誕生日は四十歳でも五十歳でもないその間の中途半端なアニバーサリーなので、近々のうちにモンゴル人になってしまうことはないと思う。

内モンゴルは中国の中にある。外モンゴルがモンゴル国で、内モンゴルは中国内の自治区である。フフホトは6世紀に築かれた南モンゴルの古都のひとつで、モンゴル語で「青い城」を意味する。人口70万人の大きな町だが、漢民族が大多数を占めており、モンゴル人の比率は1割にも満たない。あとは回部族(イスラム)のエリアがほんの少しだけ。町の新旧の顔は、貧富と直結しているようだ。華やかな中心街は銀座や新宿並みだが、日陰のような貧しい旧市街は町のにおいからして違う。

そのフフホトから約四時間。
アルデレス原生草原はバイさんのふるさと。バイさんとは僕と同じ1959年生まれのモンゴル人。ただ違うのは文化人類学を学ぶため、8年前に札幌大学に留学してきた学究の徒であることだ。北海道大学の大学院も含め、すべての予定を終了して、この7月でフフホトに帰った。
その彼を頼って、彼の生まれた草原を訪ねた、という訳。

360度の地平線。そこには電気がない。水道がない。便所がない。
横浜から北海道の広さに惹かれて移り住んだこの僕が、「広い」という概念を根底から覆された。北海道の星の多さ近さに打たれたこの僕が、草原の星の輝きに言葉を失った。
風力発電と井戸と草原の厠。これで十分だった。至れり尽くせりでないと満足できない人は、所謂「観光草原」に行くがいい。
羊と馬を放牧させながら移動する遊牧民の生活には、トイレという概念はもともと存在しないのだ。

果てしない地平線まで続く、牧草の緑、緑、緑。
の、はずが、今年は46年ぶりの干ばつ、すなわち僕とバイさんが生まれた年以来の干ばつで、あろうことか、緑が見当たらない!

サイジョーを知らない子供たちへ。2005年06月28日 11:20

「仕事でサイジョーさんに逢うんだ」
そういうと、私の周りの10人中およそ12人が、
「ヒデキ、カンゲキ!」と叫んだ。
今どきの若モンにゃ、もうほとんど分からないのではないか。
でも、知っている者にとっては「ヒデキ、カンゲキ!」なのである。
ちなみに「ギャランドゥ」「YMCA」が次点。
西城秀樹。
野口五郎、郷ひろみと共に御三家と称せられたあの頃。
「ヒデキ、カンゲキ!」とは、これほどまでに人々の心に残る? 名コピーだったのか?
これは往時西城さんが出演していた某カレー屋さんのCMコピーだったのです。
一応、コピーライターの末席を汚している人間としては、感慨深いものがあった。

僕の会社にとある編集者さんから電話が来た。
西城さんが旅する北海道洞爺湖畔といった記事のロケを行いたいが、そのコーディネイトをとのことだった。宿泊は、泣く子も黙る高級ホテル、ザ・ウィンザーホテル洞爺。
写真は旅の最終日にランチで立ち寄ったオーベルジュのメニューだ。

若く激しく活躍していた頃を過ぎた芸能人には、何人かお逢いしたことはあった。中には気負いも自負もまだ赤々と燃えていて、特別な扱いなくしてこの人はいられないのだな、という方も多かった。
西城さんは非常に正しく自然に年齢を重ねた感があって、物腰柔らかく、気さくで、しかも、格好よかった。白いシャツにGパン、黒の軽めのジャケットというごくシンプルないでたちとその着こなしは、やはりその辺にいる人ではないが、いたって心安い感じ。
僕の友人のひとりが、必ずご本人を前に「ヒデキ、カンゲキ!」って言ってね、とのたもうていた。そんなこと言えるか!
でも、ご本人は今そのコピーを聞くとどんな気がするのだろう。僕の周りの何人もが口にしたくらいだから、今でも「言って、言って! ヒデキ、カンゲキ!」とか心ない輩に強要されるんだろうなあ。今はもう、成熟を重ねたナイスミドルなんだから、そんな一般庶民のわがままに付き合うことないんですよ、西城さん。

今度生まれ変わってもまた一緒になろうね、って台詞で別れを彩った後に、別の人と離婚しては「ダディ」なんて本を出したり、また別の人と離婚しては、「これからも○ひろみを貫き続けます!」なんていう、まったく意味不明だけど、一生このまま一般人とはずれたまま、勘違いし続けて生きていくんだろうなあ、という発言をしている人とは一線を画しているようで、私は西城さんに好感を持ってしまったのだ。

さて、オーベルジュでの一コマ。
シェフを横にして、西城さんがワインで口を潤しながら、目にも美しい逸品を次々に口にしている。
シャカッ、シャカッとシャッターを切る音。
「うん、おいしいね、これ!」と西城さん。
「あ、おいしいですか、カンゲキですか?」
あ、言っちゃったあ。
これまで、厳かな雰囲気で料理の説明をしていたシェフである。
一瞬の緊張?が関係者に走る。沈黙。間。そして、
「うん、カンゲキだね!」
ご本人のこの一言で、場はぱっとまたなごやかさを取り戻した。

西城秀樹さん、あなたは素敵です。

桜の花の満開の下2005年05月21日 22:09

桜前線の移動につれて、胸の辺りがチクチクした感じになって、妙にそわそわ落ち着かない男になってしまう。もともと横浜人の自分としては、北海道に移り住んで以降、前線到着までの約1ヶ月の「時差」が非常にもどかしい訳。先々週土曜、先週土曜、日曜と続けて小樽の花を愛でてあげたのだけれど、5月20日過ぎだなんて信じられる? 今年の時差はさらに大きくなっちゃった。

北海道では何かあると必ず「ジンギスカン」ということになるのだけれど、もくもく煙がでて花に申し訳ない感じがするのと、どうしても肉の焼き加減に気をとられて、目線が下へ下へ向かう感じが未だに許せない。大体花を愛でてない! 仕事関係の花見では、一昨年まで道産子の慣例を無視して、一方的に「ジンギスカン禁止令」を出し(つまり、火気厳禁)、必ず手作りの一品と酒を持ち寄って、交換しあって飲み食いする。そんなルールでやっていた。が、今年はまあ道民に敬意を表して「ジンギスカン有り」でやったのでした。

東京から(実家は横浜。昨年秋、42年目にして横須賀へ)やって来て13年経過したのだけれど、いつ終わるとも知れず、ひたすら肉を焼き続ける純正道民たちの「ジンギスカンそれだけで」あんなに楽しそうにはしゃいてしまう様子を見て、これは血なのだ、と。微笑ましくも不思議な気がして…。やって来たからには正しい道産子、正しい小樽人になろうという気持ちと、ときどき「江戸的」なるものが非常に恋しくなって(両親は東京人です)、羽田から「神田まつや」に直行して、昼間から「そばや酒」してしまう自分とがいつもせめぎ合っているのであった。