初めまして、痛い風。2005年11月14日 21:46


先週水曜日、11月9日に東京へ。

元々横浜出身の私なので、帰省という側面もあるのだけれど、今回は丸一週間東京に滞在しました。実は亡くなった父親の実家が、渋谷区広尾の広尾商店街というところにあって、今も「お茶と海苔の星野園」というお茶屋を営んでいるのであります。ここに三泊。美智子皇后が通われていた、聖心女学園の裏門からもほど近く、近年は昔とうって変わっておしゃれな店が建ち並ぶ商店街です。

大使館や高級マンションがご近所に多い場所柄、星野園にはけっこう外人さんや芸能人のお客さんが多いんですね。以前は、有楽町の交通会館や銀座アスター(敬称略)も顧客で、毎日4、50キログラムものお茶を商っていたのですが、店を継いでいる三男(私の父が長男だった)が身体を壊し、配達が出来なくなってからは、すっかり商売の規模を縮小したのでした。
私の最愛の祖母は、90歳でまだ元気に店にたっていますが、60の坂を越えた三男、私の叔父は独身三姉妹の父親で、星野園の行く先が危ぶまれます。

さて、広尾はなんと便利なのでしょう。毎日毎日、都内の様々な場所でいろいろな方とお逢いした今回の東京出張でしたが、赤坂でも、半蔵門でも、浅草や銀座や神楽坂、四谷、早稲田、神田、渋谷新宿池袋、どこに出るにも楽々なのです。

そばっ食いの私は7日中実に5日もそば屋ののれんをくぐりました。
赤坂の割烹風、押上の新店、神田まつや、薮、横浜元町一茶庵。全部昼時でしたが、私のことですから、当然日中からそば屋酒ということになります。夜は夜で、半蔵門の焼き鳥屋、浅草のもつ焼き屋、神楽坂は松旭斎美智姐さんのスナック、四谷のこくている、横浜のどぜう屋とホッピー仙人のバー…、という具合に。

上京三日目、東京の広告代理店時代の後輩のアパートに泊めてもらった晩のこと。神楽坂のIWATOホールで、立川志らくさんの芝居を観たあとに、居酒屋で二人の噺家さん(古今亭八朝さんと立川談四楼さんです)と一杯やってから、四谷三丁目の「バー こくている」で待つ後輩の前にたどり着いたたのはもう日付の変わる頃。それから彼の行きつけのスナックと細くて辛くて有名な一心ラーメンを食べ終わり、かつての「連れ込み」を改造した不思議なアパートの窓辺でちびちび始めたのが午前二時半ごろでしょうか。

もともと尿酸値が高いとは言われていました。馬鹿にしてほおっておいた、という訳でもなく、いや、むしろ、出来る限りは酒量を落とし、食事に気をつけ、日に三、四回はプールで泳いだり、頻繁に血を採って数値を確認したり、もうかつての豪傑気取りは影を潜めていたのです。でも。

それは静かにやって来ました。

少なくとも、モノの本で目にしていた、「あらゆる痛みの中でも最強の痛み」という類いの破壊的な感覚ではありませんでした。けれども、生まれてからこれまで経験したことのない、シクシクとした違和感。消極的鈍痛とでもいうのでしょうか。右手と左足の先の方。半ば意識を喪失しかけている後輩と再会の杯を口にしながら、足元で何かがガラガラと音を立てて崩れていきました。

白い恋人たち?2005年11月19日 21:55

もう日が変わって昨日のことになるのだけれど、
日中激しくあられが降った。

この激しさは、僕が小樽に移り住んでから13年の中でも第一級で、
直径なんか大きいのは2センチ以上はあっただろう。
そんなのが轟音をたてて、地面をバリバリ鳴らしたのである。
そこに雷の轟きもコラボレートしてきた。
クルマがボコボコになるか、ガラス窓が割れてしまうか、
そんな恐怖を感じるほどだった。
一瞬のうちにあたりが白玉の海と化したのだ!
それが小一時間つづいた。
家にいたから良かったものの…。

そういえば、あられとヒョウの違いを知らない。
あられという響きは「ひな〜」なんてのも連想しちゃうので、
少し女の子の感じがするが、
ヒョウとなると獰猛な雰囲気で、昨日のはまさにそんな感じだった。

映画「マグノリア」では空からカエルが降って来たけど、
それ以上の恐怖を感じた。
高層ビルの何階かからパチンコ玉をそっと落とすと、
それだけで人間の頭蓋骨を貫通する、
なんて話も思い出した。

わざわざ横浜からやって来て、
白い偽天使にやられる。
そんな死に方だけはしたくない。

コトバと記憶。2005年11月21日 21:57

「言葉を獲得して、はじめて記憶が発達する」

「言葉抜きには存在し得ない知的な道具がある」

「音楽を聴いて一番感動しているときには、
   思い出せそうで思い出せない何かを感じる」


昨日、知的興奮に満ちたフォーラムに出かけた。

河合 隼雄(文化庁長官、臨床心理学者)と、
立花  隆(評論家)それぞれの講演と、
谷川 俊太郎(詩人)を加えた鼎談。
テーマは「読む 聞く」の4時間。

一冊の本を書くためには、取材対象から話を聞いて聞いて聞きつくして、
さらになお、関連書物を読んで読んで読みつくして、
『 I・O比率』が100対1〜1,000対1くらいで、
はじめて良い仕事になる、という立花氏の話。

『 I・O比率』という言葉を初めて聞いた。

すなわち、IN と OUT の比率。
100から1,000の情報を取り込んで、
そのうちの「1」の情報を用いて一冊の本に仕上げる。
そのくらいの密度がないと、すかすかな仕事になってしまう、と。

「モノを書く」仕事の末端を汚す者としては、
ほとんど赤面してしまうようなお話だ。

一方、クライアント(患者)をカウンセリングする際、
エネルギーを費やしながら、ボーッと話を聴くという河合氏。
患者の話を聴いている中に、勝負があるのだ、という。
ボーッとして見えるのは、勝負の間合いをはかっているのだろう。

「あられ」の翌日の、小雨の日曜日。小樽市民会館の午後。

大人すら本を読まなくなった日本人。
人の話を聞かない、聴かせたがりの誰かさん。
コンピュータの普及でますます字が書けなくなる私。
コンピュータの前に座って音楽を聴いても、
街へ出かけてナマの演奏を耳にする経験はどんどん減ってゆく。


言葉にならない体験や想い。それを表現するのが詩人。

なるほど。

つまり、

「こんとん」をインプットして、
コトバをアウトプットするのが生業の人のこと。

ファンタジー大賞。2005年11月21日 21:59

そういえば、
前回書いたフォーラムの主催者は、
「特定非営利活動法人 絵本・児童文学研究センター」
といいます。

件の文化セミナーは今年で第十回とのことですが、
セミナー当日は、同センターで主催運営し、第十一回を迎えた、
「児童文学ファンタジー大賞」の授賞式も兼ねていました。

ちなみに、
第十二回の応募締め切りが来年三月とのことで、
わたくし、
受賞しますとまでは申しませぬが、
かならずや、出品いたします。

今日ここに、軽ーく誓っておきます。

そばらく。2005年11月22日 23:01

わたしの人生に於いて最も大切なもの。
ひとつは酒でしょう。
ひとつが蕎麦であることは間違いない。

もうひとつ大切な「ことば」ということで言えば、
最近、加速度的に落語の世界が大きくなりつつある。
近々この場で、先日の東京出張での「寄席」三昧について語らねばなるまい。
ま、それはまたの機会として…。

で、今夜。

蕎麦屋で、酒を飲みながら、落語を鑑賞した。
近々この場で、先日の東京出張での「そばや酒」三昧について語らねばなるまい。
ま、それは次回にゆずるとして…。

とにかく、蕎麦屋で酒を飲むのが一番好きなわたしが、
その一番の状態で、さらにその背中に一番をもひとつ載せた。
こうした状態を、盆と正月がいっぺんに…、というのだろうか。

ただ、痛い風に吹かれている今の自分が、
そんなことをしていていいのかについては、
別の機会にこの場所で語らねばなるまい。

でも、
わたしが横浜人を引退して、
小樽人になってからの13年間のうち、
おそらく12回の大晦日の夜を過ごしている、
小樽の町場の蕎麦屋さんが、
こんなに素敵なことを、

仲間と、

真面目に、

楽しそうにやってることが、
一番の酒肴だったりする。

憂国とまぐろの日。2005年11月25日 22:46

昭和45年11月26日の読売新聞の第一面はショッキングだった。

まだ僕は11歳だったから小学校5年生くらいだけど、
かなり鮮明に覚えている。
前日、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自決した三島由紀夫の、
仲間によって介錯された頭部の写真が掲載されたのだ。

たまたまウチが読売だっただけで、
他紙がどうだったのかは知らないのだけれど、
いずれにせよ、その是非をめぐっては、
相当な物議をかもしていたような気がする。

僕が当時すんでいた横浜の団地の、
一つ下の階の家のご主人が、
美術関係? か何かの仕事をしていて、
(近所で一番早くカラーテレビを導入していた家だ。
 子供たちを集めてディズニーか何かを見せていた記憶がある)
自決の数日前に三島と打ち合わせをしたばかりなのに…
と話していた。

それから後、ようやく僕は三島を読むようになるのだけれど、
自分が産湯をつかっていた時の情景を覚えている、
なんていう描写が登場する、
他の作家とはまったく異質な印象の作風だった。
多くの人は彼を天才と読んでいたけれど。

彼がそういう評価の作家だと知って以降に、
彼に関して書かれたものの中で最も印象的だったのは、
確か山口瞳さんの文章だったと思う。

山口さんが一杯やっていた寿司屋に三島が登場する。
カウンターに一人座った三島は、
まぐろのトロが好物らしく、
何度も何度もトロばかり注文していたらしい。
何しろとにかくトロばかりなのだ。
これを見て山口さんは憤慨する。
寿司屋にとって一番肝心なネタはトロである。
そのトロばかりを注文して、結果食べ尽くしてしまえば、
寿司屋はその日店じまいするしかない。
そんなことすら気にかけずトロばかり注文する彼の様子を、
天才作家の無邪気な一面ととらえるのは好意的すぎるのであって、
挫折を知らずに生きてきた三島、
東大、大蔵省とすすんだエリート人間である三島は、
知性と教養に溢れた天才肌と謳われていたが、
意外に市井の至極常識的なことを知らない人間であったのではないか、と。

だから、僕は11月25日になると、
まぐろのトロが食べたくなる。
それも節度をもって食べなくてはならない。

ホテルドローム。2005年11月29日 23:18

今僕が北海道に住んでいるきっかけのひとつは、
藤門弘さんの存在かもしれない。
知る人ぞ知る、アリスファームのオーナー。夫人は宇土巻子さん。
1974年に岐阜県・有巣の里で「田園生活」を提唱し、家具工房、染織工房、農業などを営む「アリス・ファーム」を設立。10年後、新天地を求め北海道仁木町に移住。
外遊びの強者であり、すごい仲間がたくさんいて、自らの体験を本に書く男。

一方、話は変わるが、10年前のオープンから一度は泊まってみたかった赤井川村のホテル、ドローム。
鉱山の跡地の百万坪の敷地。まわりには白樺の林にヤマメが泳ぐ白井川。そこに鉱山時代の古材と石で造った山小屋風の建物。館内には北欧の古い農具や家具。部屋数11の小さな宿。
風の色でも何度かロケで使わせてもらっていた。

昨年末、藤本美貴さんの写真集の撮影場所にドロームの暖炉を提案しようとしたのだが、営業が停止されていた。やがて、風の色の若頭・宮嶋総士のリサーチで、ドロームの所有者が藤門さんに変わっていたことが判明。僕の2つのあこがれがひとつに合体したのだ!

かくして今年2月15日からドロームは営業再開。
藤本ミキティの撮影も無事終了。僕は現場に行けなかったのだが、
藤門さんは終始撮影にお付き合いくださったと聞いていた。

写真集が東京の出版社から送られてきて、ソーシがそれを藤門さんに届けるという。僕は「お願い、連れて行って!」と懇願した。

3月12日、広大な敷地の赤井川村側にあるアリスファーム本部、藤門さんのご自宅をソーシと共に訪ねた。自ら広い広いご自宅を案内をしていただいただけでも舞い上がっていたのに、その後で目がつぶれそうな幸運に遭遇した。しばらく休止していたが今年から再開するという、アリスファーム恒例の「クロカンスキー大会」のお誘いを受けたのだ。その名前からすると体育会系の催しの様だが、要は前夜祭と称した宴こそがメインイベントであるらしい。
顧客とうちうちのお仲間だけに声をかけるということだが、今年の参加者を伺って三たび仰天! 一般の方に混ざって、カヌーイスト・野田知祐、モンベル社長・辰野勇、作家・夢枕獏…。

野田知祐さんの著書は、僕の北海道行きを激しく後押しした。
一度、番組撮影でいらしていた野田さんと、清流・歴舟川を一緒に(といっても、もちろんほかに大勢いたのだが)カヌーで下り、酒を飲みながら話をしたことがある。このときも、今は絶滅した「男臭い男」に雷鳴に打たれたようになり、僕はコチコチに緊張した。素敵だった。



3月26日の晩、ホテルドロームで宇土巻子さんの手による、地元の食材を使った感動的にうまい料理をいただきながら、野田さんや辰野さんや夢枕さんと同じ酒を飲んでいた。まさにドローム(夢)のようだった。

今日のドロームはそれ以来だった。
撮影の合間を縫って、久しぶりにお逢いした藤門さんに、8月に行った内モンゴルの話などをした。藤門さんは、かつて40日かけて外モンゴルの川をカヌーで下ったときのことを教えてくれた。

僕は調子に乗って、かつて東京の広告代理店にいた時分に携わっていたTBSのドキュメンタリー番組のプロデューサーから言われたことを話した。僕がその会社を離れて北海道小樽に移り住むことを告げた時のこと。
そのプロデューサーは小樽出身で、小樽に行くのなら、近くの仁木(余市と言ったかもしれない)という町に藤門弘という男がいるから、自分から聞いたと言って訪ねたらいい。面白くて凄い奴だから、何か力になってくれるかもしれない、と。

当時の僕に、それを実践する勇気はなかった。
あんなに憧れていたのに。
今日は、そのことも藤門さんご本人にお話しした。

あの時、まだ、なにを生業にするかも決まっていないのに、
ただ小樽に住むことだけを決めてしまった時、
もしも言われた通り藤門さんを訪ねていたら、
その後の流れは変わっていたかな。

とにかく、それから13年経って、
僕はようやく藤門さんに逢うことができた。

(写真は夏のドローム。今はすでに雪に埋もれている)

ソムリエという仕事。2005年11月30日 23:59

詳しくはないのだけれど、
ワインが好きで、ソムリエってどういう職業かとずっと思っていた。

10年近く前、そんな想いが溢れて、ソムリエ探訪の雑誌企画を立てた。
取材を申し入れたホテルのソムリエに無理を言って、実際に彼がサーブするレストランの席にカメラを入れさせてもらった。幸運なことにというか、その晩なんと、かのロマネコンティの栓が抜かれた。

その時のページのタイトルは「ワインのある食卓のエンタテイナー」。
彼らにワインの知識があるというのは最低限のことで、料理との相性を考え、その出逢いのタイミングをはかり、ときにさりげなくウンチクを披露し、さらにワインという領域を越えた食卓を豊かにする会話の妙まで、食事の始まりから終わりまでを華麗に演出するプロフェッショナルのことだと理解した。それでいて出過ぎない、潤滑油のような存在。人間性そのものが問われるような、奥の深い仕事なのだ。



東京で広告の仕事をしていた時の後輩が、さる大手代理店で立派な営業部長さんになっていて、そんなご縁でJALさんのホームページのお手伝いをさせてもらうことになった。スキーツアーで札幌を訪れた人たちに、札幌のおいしい店やちょっと気の利いたお土産をご紹介する企画だ。

その仕事で先ほど久しぶりにソムリエさんを取材させてもらった。
「おたるワイン」で全国的にも知られた北海道ワイン株式会社に勤務するシニアソムリエである。昨年30周年を迎えた同社が、満を持して発表した新ブランド、フラッグシップと呼べる本格派ワインについてお聞きし、スタジオでソムリエの装束に身を包んだ彼の若き勇姿を撮影した。

かっこいい。

その取材の詳細は、JALさんのホームページの年明け公開分でご覧ください。私の手がけたページそのものは、明日からスタートします。
またご案内しましょう。


撮影担当は、長年僕が全幅の信頼を寄せている本田匡カメラマン。このスナップは、被写体のソムリエ氏を撮る前に、構図や照明が決まるまでの代役(所謂「スタンドイン」)を務めるワタシで、ご本人ではありませんのであしからず(本田写真事務所のスタジオで)。プロにカッコ良く撮ってもらった嬉しさに、本来はあり得ないのですが、無理矢理お願いして1枚いただきました。