海老澤先生と僕4(完結編)2012年06月03日 00:33


    (サントリー音楽文化展1991 モーツァルト没後200年記念 図録)

海老澤先生のお伴をしたヨーロッパの旅から帰って、僕らは早速図録編集や、ミュージアムグッズのポスター、ポストカード、テレホンカード等の制作作業に取りかかった。さらに展覧会全般の広報活動、CM制作、オープニングセレモニーの進行から、ウィーン学友協会やザルツブルグ国際モーツァルテウム財団から借り受ける国宝級の出展物への保険などの事務作業、実際の展示作業など、ありとあらゆる業務に携わった。

オープニングを含む会期中には、ザルツは「大きな朝食」のアンガーミューラー博士やウィーン学友協会の学術部長らが立ち会いに来日した。海老澤先生、そしてアンガーミューラーやオーストリア駐日大使や主催のVIPがテープカットするセレモニーは僕が台本を書いて現場進行もした。

関連イベントとして展覧会期間中にサントリーホールで開催されたマーラーのシンフォニーの演奏会や、海老澤先生を中心に、マーラーゆかりの指揮者、故朝比奈隆さん、作曲家の三枝成彰さんらを招いたシンポジウムのディレクションもした。

とある日は皇太子殿下が来場されることになって、SPを伴い「赤坂御所を何時何分何秒発、どこぞの角を何時何分何秒に曲がり、このエレベータの右から何番目で時何分何秒に昇降」みたいなものものしい戒厳令のような状況下、出展物をひとつひとつマンツーマンで皇太子にご説明し館内をまわられたのも海老澤先生だった。

海老澤先生にお供し、ザルツブルグで「大きな朝食」に加えさせてもらった前段の旅があったことが、どれだけそうした諸々にプラスに作用したことか。

1989年4月4日からの会期中は毎日サントリー美術館に詰めて、一日二回会場内で行われる生演奏のアテンドや、基本的な運営作業、入場者数の把握やグッズ販売、その売り上げ管理などに追われた。日常の広告代理店業務と別個にである。

旅から半年後の1989年5月、1月半続いた展覧会最終日、並みいる内外のVIPに交ざって、僕はフェアウェルパーティに出席させていただいた。帰国以降のさまざまな場面を考えれば、旅の最中の「大きな朝食」や「チェコのディスコホテルの一件」が、いかにそれぞれの立ち位置を度外視した破格な出来事であったかを思い知らされた。

けれどパーティの席上、参列者の中で明らかに格下な僕にまたしても気を使い、世界のエビサワが話しかけ、VIPたちに水を向けてくださった。「ホシノさん、ホシノさんもよくがんばりましたね。縁の下の貴方の活躍なくして、この展覧会の成功はありませんでしたよ。欲を言えば、ホシノさんはもう少し語学(ドイツ語も英語も流暢にお話しになる先生に!)を勉強するといいですね」

(あ、はい、ブイヨン・ミト・アイ!)

その翌日、展覧会場の撤収中に僕はストレス性の急性胃腸炎と過労で緊急入院した。



マーラー展から三年後、僕は当時の会社を離れると同時に所帯を持つことになった。件の展覧会シリーズの10年は、ほぼ僕の在籍期間と重なっていた。社長の来賓挨拶以下、その会社の社員食堂化するのが通例の披露宴に、僕は今後もずっと個人的に付き合って行きたいと思うごくわずかの社員しか案内しなかった。

その時はまだ、その数ヶ月後に自分が北海道民になろうとは、僕自身が微塵も考えてはいなかったけれど。

祝電披露で、倉本聰さんのCM制作で知り合った富良野のくまげらの店主森本毅さんの文面が圧倒的に素晴らしく、かなり僕を危うくしていた。それを隠すために能面になって続く電報を聞いていると、しばらくして耳に入って来た言葉_。

「ホシノさん、あなたと一緒にヨーロッパへマーラー詣でに行ったことが思い出されます。これはささやかな わたくしからのお祝いです。おめでとう」

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ピアノとオーケストラのためのロンド イ長調 K.386
第9葉(第155小節〜第171小節)自筆譜復刻版
海老澤敏 所蔵


これで僕はとどめを刺され、ひな壇の上で完全に駄目になった。
隣のひとをさしおいて、かっこ悪いっちゃない。

いや、それから20年以上経った今これを書いていて、突然、鼻の付け根の奥のあたりが渋いようなぬるいような危ない感じに襲われてしまっている。画面が滲んで来る自分がいる。

2007年6月2日に帯広で開催された北海道モーツァルト協会『祝祭モーツァルト(帯広とかちプラザ)』をひょんなことからお手伝いをした際に、実にお久しぶりに先生と秘書の渡辺千栄子さんにお目にかかった。

その再会のお陰で、2008年3月28日にホテルオークラで開かれた『海老澤敏先生の文化功労者顕彰をお祝いする会』にお招きいただき、飛行機に乗って会場のホテルオークラに飛んで行った。

それらの時も、あのフェアウェルバーティ同様、顔ぶれからして明らかに場違いな自分自身を自覚するのだけど、直截言葉を交わさせていただく以前に、遠くから先生の姿を目にしただけで、今と同様に鼻の付け根の奥のあたりが渋いようなぬるいような危ない感じに襲われてしまうのである。


そのお祝いの会の際の参列者への記念品がCD『モーツァルト生誕250年祝年 小川京子 二つのモーツァルト』だった。そうして6月3日日曜日の札幌コンサートホールKITARA 小ホールのプログラムは、
『小川 京子 Piano Recital 〜リラの花咲くときに〜』(16時〜)

海老澤先生がプレトークでステージに立たれるという。

先生の奥様の小川京子さんは、いまやわが町となった小樽のご出身であることを、お目にかかって四半世紀経って先日別の方から教えていただいた。恥ずかしながら、僕は知らなかった。なんという…。

先生、明日、KITARAへ。
                            (終)


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