六月の追想。2012年06月30日 22:50



強面の役者さんの役域をグッと広げた意味において、「北の国から」のあの役に地井さんを起用した倉本聰さんの功績は大きいと思う。その延長線上に「地井さんぽ」もあった。むろん、本来の人間地井武男の人柄なのだろうけれど。

地井武男さんは俳優座の第十五期生だったという。
俳優座というと思い出すことがある。

僕の敬愛する仲代達矢さんは俳優座養成所の第四期生で、佐藤慶、佐藤允、中谷一郎、宇津井健さんら、錚々たる顔ぶれが同期である。

僕の母は女学校時代に演劇にどっぷり浸かっており、高校の全国大会みたいなものに出場するレベルだったらしい。当時慶応大学の浅利慶太(劇団四季)さんが審査員を務めていた、と母から聞いた記憶がある。

あまりにも家が貧しくて、役者の道を諦めて就職したのだけれど、卒業後、母は俳優座養成所の試験を受け、実は合格していた。そのまま通っていれば仲代達矢さんと同期だった。

その母ももういない。


六月六日は僕が北海道に移り住んでから一番たくさん仕事をご一緒したデザイン会社と印刷所を経営していた S さんの命日だった。

絵に書いたような病院嫌いで、体調不良を半年以上も放っておいた挙げ句、入院してわずか三ヶ月で逝ってしまった。四年前のことだ。

一度は退院して来て、彼の事務所で点滴を背負った状態で二人の企みを打ち合わせした。

最後のホスピスを見舞ったとき、眠っているようなので枕元で奥さんと会話していたら、いつも人を食ったような冗談ばかり言う明るい S さんが突然の大声で、「ホシノさん、ちゃんと聞いてるからねー、ごめんねー、今日はね、今日は駄目なんだ、ごめんねー、また来てねー」と号泣した。

亡くなったのはその直後だ。


六月四日は噺家の古今亭八朝夫人の乃里子さんの命日。昨年のその日は一周忌に参列して来た。ちょっとさびいしい法要だった。

一滴も飲まない師匠を尻目に、いつも女将さんと呑んだくれていた。それどころか、師匠の運転で、浅草、上野、赤羽、また浅草…とハシゴしたこともある。

僕の企みで新富良野プリンスホテルのディナーショーに付き合ってもらったときは、主役のいっこく堂さん、共演のマジックの奇才ルーフさん、狂言まわし役の八朝師匠と、出演者全員が下戸なのに、打ち上げの「くまげら」で女将さんと僕ばかり杯を重ねた。

二年前、芸人さんばかりが集まった板橋区の斎場に駆けつけた時。お弔いと露払いが終わって、噺家としての八朝師匠の「同期」であり、何度か酒席もご一緒した立川談四楼師匠に顔を見てやってと促されて棺の前に。

「一緒に動物園に行こうって言ってたのに」と女将さんに声をかけた瞬間、訃報を電話してくれた時も、通夜の最中も不自然なくらいに淡々としていた八朝師匠の顔がみるみるぐしゃぐしゃになって嗚咽を漏らした。

実は翌月、また僕の仕事でお二人は札幌に来る予定だった。乃里子さんのたっての希望で、空いた時間に三人で旭山動物園に行く約束になっていた。

札幌で僕がお願いした仕事の直前、2010年7月、ふたたび上京した僕を八朝師匠は日本橋室町の砂場に連れて行ってくれた。

師匠の師匠、現代の名人と呼ばれた古今亭志ん朝さんがもっとも愛した蕎麦屋。志ん朝さんのいまわの際の願いで、八朝師匠が病床の志ん朝さんに運んだ砂場の蕎麦。そいつをいただきながら師匠は言った。

「世界で一番大好きだった志ん朝師匠が亡くなってもう十年近く経つけど、泣かないでここの蕎麦を食べられるようになったのはようやく最近だよ」

それから師匠は一本の扇子を差し出して「これあげる」と言った。女将さん、乃里子夫人の愛用品。

「い、いいんですか形見の品」
「いいんだよ、形見はいやってほどあるから。星野さんに貰って欲しいんだ」
「ありがとうございます。大切にします!」
「いいんだよ。大切になんかしなくったって」


六月が終わる。
今年は S さんにも、乃里子さんにも会いに行けなかった。だから追想と追悼の想いで長々書いてしまった。そんなこんなで六月はちょっとつらい。

八月は父の二十三回忌だ。

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