お江戸の芸と永さんと(前編)。2005年12月04日 01:14

ブームと言われているからだけではなく、最近落語が気になっている。
北海道に惚れ込んで移り住んだものの、ときどき無性に江戸的なるものが恋しくなる自分としては、蕎麦なんかと同等の、文化への慕情みたいなものかもしれない。北海道でも頑張って落語を紹介しようとする動きがあるようだが、いかんせん集客もきびしいらしい。

この3月頃、僕も自分なりに北海道に落語を持ってくるようなことができないかと考えていた。
そして思い当たった。
「俺、噺家さん知ってるじゃないか!」
東京時代に仕事で何度かご一緒していた古今亭八朝師匠だ。

八朝さんは、名人として名高い5代目古今亭志ん生(享年83)の二男・古今亭志ん朝師匠(2001年10月1日没。享年63歳)のお弟子さん。その優れた企画力から、古今亭一門の頭脳と呼ばれている。

思い立ったら何とやら、最後にお逢いしたのはかれこれ15年くらい前なので、現在の連絡先が分からない。で、落語協会にメールをしてみたら、数日後に協会からメール、その数日後にご本人から電話がかかった。

「なんだよ、どこかいなくなっちゃったと思ってたら、北海道にいたの? え、当たり前だよ、覚えてるよ、あんたには何度も世話にになったもの。俺たちを北海道に呼んでよ、門戸開いてよ。あ、そうだ、ホシノさんに見せたいモノがあるんだ、東京来ない?」

そこからはトントン拍子だった。
八朝師匠がどうしても僕に見せたいと言ってくれたのは、芸者衆の粋なお座敷芸として発祥、志ん朝師匠が生前懸命に保存しようとしていた女性芸人さんばかりでやる「木遣り」。志ん朝師匠の意思を継ぐ形で、永六輔さんのサポートによって旗揚げとあい成った「大江戸小粋組」公演だった。

八朝師匠のご手配によって、発売、即完売となった3月29日の国立演芸場の席に僕は座っていた。司会進行は「しゃべるめくり」として永六輔さん。凄かった。ふるえた。かっこ良かった。芸人衆も、永さんも。

それから7ヶ月強。
11月9日に「大江戸小粋組」の第二回公演が、さらに11月14日には、八朝師匠の落語会に永六輔さんがゲスト出演すると聞いてまた胸が騒いだ。
かつての「六八九トリオ」(作詞家・永六輔、作曲家・中村八大、歌手・坂本九)をもじって「ひさびさの六八コンビ!」という謳い文句だ。いてもたってもいられなく、僕は再び東京へ。

実は、僕は少年時代から、永六輔に魅了され続けているのだった。

(以下、次号)

お江戸の芸と永さんと(後編)。2005年12月04日 03:16


小学生の頃、僕は毎年の夏を父親の実家である渋谷区広尾で過ごした。
そこはお茶屋さんで、叔父が毎日配達に出かけるのだが、僕はいつもその助手席でラジオを聞いていた。
TBSの「誰かとどこかで」は、特にに必ずと言っていいほど聴いていた。
永六輔さんと遠藤泰子さんをパーソナリティに現在も続くこの番組は、放送1万回を越えたと聞く。

その後、野坂昭如さん、小沢昭一さんと共に「中年御三家」としての歌手活動や、刑法175条、尺貫法を社会問題として訴えるライブ、今でも僕のシンガーベストワンである長谷川きよしさんとのジョイントコンサート等々、中高生から大学にかけて、僕は何度も何度も永さんのステージに足を運んでいる。いや、そのもっと前からNHKの「若い広場」や「テレビファソラシド」「YOU」など、永さんの手がけた番組はいつも知的で、でも軽やかに楽しくて引き込まれた。だいたい、そのもっともっと前には、すでに「こんにちは赤ちゃん」や「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星」とか、日本歌謡史に残る大作詞家として、すでに大きな足跡を残している訳で…。まったくなんて人なんだ!

文章家としての、その職人の世界、旅の世界、近年の「大往生」…。どうしてこうもすべて僕が夢中になってしまうものばかりなんだろう。僕には、永さんのその「面白さ」の質が、この世の中に存在する、数ある「面白さ」の中でも群を抜いて気が利いており、硬質で、でもときに柔らかで、知的興奮と庶民的活力がごちゃまぜなった、他に越えるもののない面白さのように思えて仕方がないのである。


今回、八朝師匠とのご縁で、再び永六輔さんの「コトバの世界」が僕の中に大きく広がっていった。

そういえば確か、と思って東京時代に勤めていた広告会社のプロフィールをひも解いたら、昭和35年の創業当初、永六輔さんや野坂昭如さん、前田武彦さんら錚々たる方々をマネージメントしていたことを確認した。

そんなこんなの想いを八朝師匠に告げると、楽屋で挨拶させてやると言ってくれた。けれど、師匠自身が「永先生」に呼ばれると足が震える。というくらいに、芸人さんたちにとっても、永六輔は神様のような存在らしいのだ。やすやすと僕などがご挨拶できる方なのかどうか…。

今回の上京の際には、古巣の会社の創業者を訪ねて、永さんが所属していた当時の話も伺った。何か、すべてが大きな所で繋がっていたようで嬉しくなって、一人で勝手にはしゃぎつつ、もしも「ご挨拶」ってことになったらどうしよう、と小心者は怯えたりもした。そうなったときは、何か差し入れるべきなのか、面識もないのに出過ぎたマネなのか、思い千々乱れるというやつである。

結局、タイミングが合わず、「小粋組」の時も「八朝の会」の時も、ご挨拶はかなわなかった。「永六輔と知り合いになってきます! 『小粋組』を北海道で僕にやらせてもらえるよう、直談判してきます!」と豪語、無理矢理一週間の出張に仕立てた僕としては、少々気まずい感じもあったのでした。

東京から戻ってきてしばらくしてから、永六輔さんに手紙をしたためた。
お逢いできるかと思って、広尾の「お茶と海苔の星野園」のお茶を用意して臨んだけれど、差し上げることができなかった、と書いた。古今亭志ん朝という現代の名人のために一肌脱いだ永さんに、その弟子である八朝師匠ですら足の震える永さんに、恋いこがれて逢えなかった永さんに、一方通行のファンレターだった。

昨日、小樽の星野家のポストに1枚の葉書。
永い片思いの相手から、1枚の葉書が届いた。