父の終戦記念日。2018年08月15日 15:00

二十八年前の終戦記念日の朝、僕は東京西早稲田のアパートから成田空港を目指して靴を履こうとしていた。そこに横濱の実家の母から電話が鳴って、すぐ帰って来いという。

 

「え、今日から夏休みで今出かけるとこなんだけど…」

「とうさん、危篤よ」

 

さかのぼること三年半前、父は直腸癌の手術をした。

当初は早期発見とのことだったけれど、術後に先生から余命三ヶ月の宣告を受けた。

 

それから父の命は三年以上も永らえ、家族の緊張も和らいできた。

父はこのまま治ってしまうのではないだろうかとすら思い始めていた。

 

なかなか忙しい広告の仕事をしていたし、父のこともあったし、その三年間は長い休みを取ったことはなかったように思う。久しぶりに夏季休暇を申請して、その日からタイへ出かける予定になっていた。ギリギリまで仕事をして前の晩は準備で飛び回っていた。アパートに戻ったのは真夜中だった。今のように携帯電話もなかった頃なので、あと一分母の電話が遅ければ、連絡のつかいないまま僕はタイへ旅立っていただろう。仮にタイのホテルで捕まえられたとしても、お盆の繁忙期に帰国もできず、僕は人非人になっていたに違いない。

 

 

黙祷の時間ころに金沢区の病院に着くと、父方の親戚はおおかた集まっていた。母方の叔母も二人駆けつけてくれていた。暑い暑い日で、蝉時雨がうるさいほどだった。父の意識はなく、荒い息をしていた。今年亡くなった父の一番下の弟が、うわ言を発している父の口元に耳を近づけていた。ほとんど聞き取れない切れ切れのあえぎの中から、四男坊はかろうじて聞き取った、

「兄貴がね、もうレコードが止まった。って」という意味不明な言葉を皆に告げた。

 

 

危険な状態を脱した訳ではなかったものの、しばらく小康状態が続きそうだという医者の言葉に促されて、親族たちは夕闇にまぎれていったん三々五々引き上げていった。

 

 

その頃は仕事の忙しさを口実に、父のことは母に任せっきりにしていた。

海外へ飛び出そうとしていたことも含め、その罪滅ぼしの気持ちもあって、今晩は自分がここに泊まるからかあさんはゆっくり眠ってくれと母を実家に帰し、僕は父のベッドの隣にもうひとつベッドを置いてもらい隣に寝た。

 

 

長年会話のない、絶望的にはぐれた一人っ子と父親の関係だった。

こんな時、意識のない父親にどのように話しかけたものかうまく言葉も見つからなかった。

自分にはただ隣にいることしかできなかった。

 

 

夜中の三時頃、父の容態が急変した。

 

急いでナースコールをし、看護師は慌てて宿直の先生を呼んだ。

僕は急いでナースセンターの公衆電話から母に電話をした。

 

僕らには深夜の交通手段がない。

僕の車はあの時実家に置いてあったのだっけ。

母は車の運転ができない。

無線タクシーも捕まらない。

 

僕の実家は病院から車でものの十分ほどの距離なのに、さっきまで親族一同が集っていた病院に危篤状態の夫のために駆けつける術が母にはなかった。

 

「もうどうしようもないね。あなたに任せたから」

 

電話口の母が静かな口調で言った。

僕は意を決して父の病室に戻った。

 

たぶんその際の処置で結果が変わることはなかっただろう。でも、ドラマなんかでよく見る心臓にショックを与える大きな救命の機械が運ばれてきて、慣れない若い医師がその扱いに窮して、その修羅場で、父が最後の戦いをしているその現場で、家電で言うところの取扱説明書みたいなものと格闘している様は滑稽で悲しく、怒りがこみ上げてきた。

 

 

僕は自分でも驚くような大声をあげ、父親の足にすがりつき、

自分の口が勝手に  助けてください  と発しているのが遠くで聞こえていた。

 

 

 

 

父が静かになってしばらくして、落ち着きを取り戻した若い医師が言った。

 

「朝までに病室を空けてください」

 

まったく想像もしていなかった言葉をぼーっと聞いていた。

もう怒りも絶望もなかった。

ただ白けたような虚無感だけが溢れてきた。

 

 

夜明け過ぎに、ドラマみたいに真っ白い朝もやに包まれた病院の裏口から、紹介された番号からやってきた見知らぬ葬儀屋さんと二人で父親を彼の車に乗せたところで、四年近く続いたその病院との付き合いが終わった。

 

 

 

終戦記念日は、だから、二十八年前から父の戦いが終わった日にもなった。

平成になってまもない終戦記念日だった。

 

 

今日は平成最後の終戦記念日だという。


叔母からの手紙。2015年11月11日 16:35



十一月一日は初秋に満百歳で逝去した祖母(亡父の母親)の四十九日だった。残念ながら諸事情により僕は東京青山にある星野家の菩提寺の納骨に参列できなかった。

数日前、その日に会えなかった亡父の妹、僕の叔母から分厚い封書が届いた。

叔母のご主人は数年前にALS 筋萎縮性側索硬化症という重い病に襲われた。

饒舌でビール党の叔父は、その凄まじいほどに進行の早い病のために、あれよと言う間に言葉が不自由になり、現在は頭と目と耳は確かだけれど、起き上がることも寝返りを打つことも言葉を発することも出来ない。

唯一動かせる足の指で特殊なパソコンに打ち込む言葉だけが、残された外界との意思の疎通方法だ。

長年俳句に親しんできた叔母に促されて、叔父は俳句に手を染めるようになった。この度届いた分厚い封書は、2013年7月から2015年10月にわたる叔父の俳句作品集だった。

俳句初心の叔父である。
その巧劣の問題ではない。

話すこととビールが何より大好きで、親族の集まりでは飲兵衛の先輩としていつも隣でご相伴した僕の叔父である。妻の(そして私の父の)実家のお茶屋や独立した子供達の自宅を設計した一級建築士の叔父である。突然想いもよらぬ残りの人生を生きざるを得なくなったひとりの男の叫びに突き上げるものを抑えきれなかった。

二年と少しの間に同人誌に掲載された叔父の膨大な俳句の中から、僕が徒然なるままに選んだ句と、ご友人、そして本人の短い文章と合わせてここに記す。

叔父はもう俳句の言葉でしかこの世の中と繋がることができない。それならば、少しでも多くの人たちに叔父の生きている証しを感じていただければと勝手に思った次第である。



呼吸器に 生かされてゐる 夜長かな

天高し 我は 丸太のやうなもの

秋深し 我が句打ち込む 足の指

手をつなぎ 歩きし日あり 十三夜



ジョンレノン 冬銀河より メッセージ

着ぶくれの 妻来てこころ あたたまる

麻痺の手に 主の御手重ねらる 聖夜



生きるための ときめき今も 春立てり

うららかや 笑顔素敵と 見舞はるる

春宵の ふと思ひゐる いのちかな

お見舞の 大きな籠の スイートピー

嗅覚を 失ひし 我春の霜

起き抜けの 新茶楽しむ 日々ありし

卯の花や 病得てより 年取らず

卯の花や 生きてゐるだけでいいと妻



梅雨しとど 山泣き海泣き 我も泣く

あぢさゐや 妻と旅せし 宝の日

打揚げ花火 腹に響くや 車椅子

娘二人の家を設計 百日紅

病床の 願ひは一つ 星飛べり



許されて するめをしやぶる 秋の宵

「あ」でも「う」でも声を出したき 夜長かな



私ごとで恐縮ではあるが、この句の作者 Aさんは、私の夫とは高校以来の親友である。一級建築士であるAさんは、現在難病のALSの闘病中。

毎日送られてくる『湧』への句稿を見ながら、夫は声をあげて泣くのである。声を出したくても、手足を動かしたくても、体中全ての筋肉が機能しない。この無念さを、悔しさを、親友として思うとき、止めどなく泣けてくるのだと思う。

微かに動くまぶたの瞬きで、文字盤を追い俳句を作り続けている。愛する家族や介護のスタッフに手篤く支えられて。

読み手である私たちは、Aさんの俳句から、感動や勇気をもらっている。




手の動かば 本を読みたし 秋灯

連弾や 娘と孫や 木の実降る

鳳仙花 餓鬼大将と言はれし日

スカーフに 秋風を連れ 妻来たる

取つておきの 年酒を妻と 酌みし日よ


初夢や 建築語る 我のゐて


手をつなぎ 狭山丘陵 十九の春

早春や 一緒に生きる これからも

桜咲く 百歳の義母 祝ふごと

病得て 新茶楽しむ 時もなく

卯の花や 施設で暮らす 義母思ふ

小説に 読み耽りし 日桜桃忌



俳句を始めて二年弱になる。身動き出来ない私の体は、読むことも書くことも話すことも不可能。妻の読み聞かせが全てになった。歳時記を覚えることにも苦戦している。俳句が出来た時には何回も繰り返し覚え、唯一僅かに動く左足の親指で「伝の心」に打ち込む。俳句は昼も夜も一日中考えている。そしてなくてはならないものになった。



父の日や 向日葵抱へ 娘来る



妻が来る いつもの道の 秋日傘

盆祭り 大きくなれと ひよこ買ふ

秋時雨 義母の訃報に 祈りけり

穏やかに 百歳の母 逝きし秋

義母逝きて 思ひの募る 夜半の秋

妻のゐて生きる意欲の出づる秋

仲秋の 古曲に義母を 偲びけり

赤蜻蛉 出会いし人の 皆優し



あのひとのこと。2014年11月18日 16:41

僕が大学四年生か五年生の夏のこと。
もちろんまだ、横濱市民だったころ。

函館を訪れるたび、朝市でイカ徳利を売っていて、いきなりスペイン語で話しかけてきたりする名物おじさんの編笠屋さんに挨拶をするようになっていた。その日も「こっちへ来な」と言われて、彼の隣にぺたんと座らせてもらって、お茶などご馳走になりながら、彼と観光客との可笑しいやりとりをしばし楽しみ、自分だけちょっと別格みたいで得意な気分だった。

少しすると朝市全体がなんだか騒然としてきた。観光客のみならず、地元函館の人たちも突然右往左往し始めた。よくよく聞いてみると、高倉健さんが朝市で映画撮影をしているという。健さんをひと目見ようとする人たちが「あっちにいた」「いやこっちだ」と色めき立っていた。

僕も映画ファンであり、数年前に観た、同じ北海道を舞台にした名作『幸福の黄色いハンカチ』の “あの” 健さんをこの目で見たい気持ちは山々だったけど、元来がひねくれ者なので、どうせ行っても黒山の人だかり、群衆の中のその他大勢のひとりなんて面白くないし、第一それは健さんの撮影の邪魔になるだけじゃないか、とハスに構えて、編笠屋さんの隣にいる幸運の方を選んでそこを動かなかった。内心はちょっと残念だったのだけれど。

その晩同じ民宿に泊まっていた三重県からの女の子と、宿の夕食の後、散歩に出た。
元町界隈の観光名所、ハリストス正教会あたりを裏手に入り、昼間の観光客はここから逆に海の方を眺めることなんてしないだろうと、やっぱりひねくれ者ぶりを発揮していた。

その時、街灯もほとんどない暗い夜道を、向こうから見覚えのある顔が歩いてきた。
大人がふたり、子供がふたり。高倉健さんと田中邦衛さん。北の国からの純くん(吉岡秀隆さん)と同じドラマでいい味出していた少年だった。その他には誰もおらず、どこからどう見てもプライベートな時間を散歩に興じていたのだ。あちらは人から見つめられることに慣れている人たちだったから、他に誰もいない夜道で四人と二人が遭遇しただけのことなのに、なんとなくお互いが会釈し合うような感じになった。

僕らの表情から察したらしく、「(健さんと)写真撮ってやろうか」と切り出したのは田中邦衛さんだった。僕は「いえ、そ、そんな田中さんも一緒に」てなことを言った気もするが、「いいんだよ」と言って田中邦衛さんは僕のカメラをひょいと奪い取り、ご覧の一枚になった。



その時、函館で撮影していたのは、敬愛する山口瞳さん原作、降旗康男監督の『居酒屋兆治』(1983年11月公開)だったことを後から知り、もちろん映画館に足を運んだ。

1983年秋は、卒業論文に倉本聰さんと山田太一さんをモチーフにしたテレビドラマ論『悪人のいない風景』を書いていた頃に重なる。大学で最初に知り合った男が北海道の中湧別町(当時の実家は遠軽)の出身で、一年生の夏休みから僕は彼の実家を拠点にさせてもらい、何度も何度も北海道を旅していた。

翌1984年春に入社した広告代理店での僕の初仕事は、これも同じ1983年に放送されていた倉本聰さん脚本のテレビドラマ『昨日、悲別で』の主役 天宮良さんの男性用化粧品CMへの起用だった。その縁で倉本聰さんにはサントリーオールドのCMに出演していただくことになり、以降、公私ともに北海道(特に富良野)との縁も深まったことが、1992年の僕の北海道移住に大きな影響を与えたと言わざるを得ない。


倉本聰脚本、高倉健主演の『駅STATION』は1981年公開。増毛や雄冬を訪ねたっけ。
『網走番外地』に始まり、『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』『鉄道員』…僕らは北海道に立つ高倉健をたくさん目撃してきた。



さきほど高倉健さんの訃報に触れ、この写真のことを思い出して、クローゼットをひっくり返した。
この後、田中邦衛さんにも一緒の写真に収まってもらったのだけど、どうしても見つからない。
この時一緒にいた人たちは、高倉健さんの訃報をどう受け止めているのだろう。

健さんは風呂上がりの石鹸の香りがしたのを覚えている。


合掌。

その時を逃したら、もう二度と逢えないかもしれない、ということ。2014年08月23日 02:31


シンガーの西岡恭蔵さんの前座を務めたのは、富良野の唯我独尊の20周年のステージだから、今調べた上川総合振興局ホームページの宮田さんの店の情報(創業1973/昭和48年)が正しければ、+20で、1993(平成5)年のことになる。21年前? え、そんなになるかな?

富良野駅前の「傷つく森の緑」で関係者が打ち上げしていたとき、僕は恭蔵さんに助けられた。
僕らのライブを観たお客さんが隣で飲んでいて、僕にさっき唄ったオリジナル曲を唄えと言う。
ただでさえ、恭蔵さんの前座で唄うというあり得ない体験に緊張し尽くした後だというのに、そのご本人も本番を終えて寛いでいるプライベートな打ち上げの席、常識的に言っても、またしても恭蔵さんを前にしてという意味に於いても、僕が唄える訳がない。

丁重にお断りしたのだけれど、相手は酔っていて相当にしつこく、場は険悪なムードになりかけていた。

その時だった。恭蔵さんがいとも軽やかに言った。「ほんなら僕が唄いましょ」。
恭蔵さんが引き取ってくれたお陰ですべては丸く収まり、歌自体も晴らしかった。
恭蔵さんのその自然体は僕には衝撃的で、僕は素敵なお兄さんにひと目惚れした少女のマナコになった。

その晩は恭蔵さんも僕も主宰者である唯我独尊の宮田さんの自宅兼民宿に泊めてもらうことになっており、打ち上げ後の帰り途、数台のクルマに分乗したのだけれど、偶然ボクの車に恭蔵さんが乗ることになった。ひと目惚れ状態の僕は舞い上がるような気持ちだった。

その時、北海道をツアーで回っている恭蔵さんが、僕の隣で独り言みたいにぼそっと言った。まだ来たばかりなのに、いったん東京に帰らなくてはならなくなった。カミさんの具合がよくないらしい。

今思えばあの富良野は恭蔵さんにとって、それから4年後に亡くなる奥さんで作詞家KUROさんの病気が発覚した時だったと思う。そのことを部外者で最初に聴いたのは僕だったのではないか。

それから僕は恭蔵さんと手紙のやりとりをするようになった。
小樽のライブハウス一匹長屋に恭蔵さんが出演した際にはもちろん出かけたし、ライブ終了後には共演したギターの関ヒトシさんと三人で飲み明かした。

新アルバム発売の際には、ジャケットにコメントをもらった。

櫻が満開の東京でKUROさんが亡くなった、そのちょうど一年後、恭蔵さんは東奔西走してKUROさんの楽曲の提供を受けたアーティスト二十数名を集め、『KUROちゃんを謳う』と題した追悼コンサートを世田谷パブリックシアターで開いた。僕も小樽から足を運んだ。恭蔵さんはそれをたいそう喜んでくれた。

その後しばらくして、たまたま見かけた音楽雑誌に恭蔵さんのインタビューが載っていた。
KUROさんの一周忌まで、自分に悲しむ暇を与えないように追悼コンサート実現に没頭して来たけれど、それもすべて終わって、今、自分は抜け殻のようだ。生きる意味を喪失したような気分になっている。そんな内容だった。

これはいけない、と思った。

恭蔵さんの音楽に触れ、実際にその人となりを目の当たりにしてみると、恭蔵さんのえも言われぬ優しさは、KUROさんへの深い深い愛情から発せられているのだと思えたから。とにかく、もう一度恭蔵さんに逢いたいと思った。

けれども日々に追われ、時間は過ぎて行った。
追悼コンサートからまた一年、東京の櫻が三たび満開になったある日、新聞を見て僕は腰が抜けた。
恭蔵さんが自ら命を絶った。衝撃? そんな陳腐な言葉であの時の僕の驚きと哀しみは言い尽くせない。

恭蔵さん、あなたは嘘をついた。
KUROさんが亡くなってから発売された恭蔵さんのアルバム、結果、遺作となったアルバム『Farewell Song』のジャケットに貴方は自筆で書いてくれたじゃないか。恭蔵さんの便りにはいつも、その人柄がじかに伝わって来るような優しい字面の言葉がしたためられていた。

『愛は生きること』

こういう言葉を、歯が浮かずに僕に届けてくれる人を、僕は恭蔵さん以外に知らない。
でも、あなたは嘘をついた。


あの時、無理やり恭蔵さんに逢っていたとしても、恭蔵さんの人生がなにか変わる訳がない。僕の中で恭蔵さんはもの凄く大きな存在だけれど、恭蔵さんの心の中に僕が大きく住んでいたと思うほどうぬぼれては居ない。でも、もう一度恭蔵さんに逢いたかった。あの優しさに触れたかった。

逢いたいと思った人には、その瞬間に逢いにゆかなくてはいけない。
行かなくてはならない場所には、一刻も早く訪ねてゆかなくてはいけない。
僕の人生観にその想いが大きく激しくもたれかかって来た。

そうして少しでもそれを実践して生きていかなくちゃと思って来た。
なのにそれからたかだか二十年の間にも、僕は何度同じような後悔を繰り返しただろう。
三日前にも、僕が北海道に移り住むきっかけのひとつを作ったとある人の終焉に立ち会うことが出来なかった。恭蔵さんの教訓を活かせなかった。母の時だってそうだ。ピエールの時だってそうだ。


僕が愛した西岡恭蔵さん。

恭蔵さんはたくさんのアーティストに楽曲を提供していた。
沢田研二も松田優作も矢沢永吉だって、恭蔵さんやKUROさんの曲を歌っていた。
恭蔵さんの名曲『プカプカ』がどんなに凄い歌かは、カバーをしたアーティストの顔ぶれを見れば分かる。

大塚まさじ(ザ・ディランII)
大西ユカリと新世界
桑田佳祐
大槻ケンヂ
つじあやの
福山雅治
奥田民生
原田芳雄
桃井かおり
クミコ
泉谷しげる 
大西ユカリ
清水ミチコ
宇崎竜童 

…まだまだ居る。


合掌。

櫻とお盆の時分にはどうしてもあなたを想い出すので。

最後の江差線。2014年04月17日 12:21



僕はまったく世に言う“鉄男”くんではないのだけれど、木古内から江差まで走るJR江差線には思い入れがある。そのきっかけはかれこれ二十年弱前までさかのぼる。そのあたりを書くと長くなるのでここでは割愛する。

三、四年前には、あるテレビ局のドラマプロデューサーを務めている友人との話で、沿線を舞台にしたドラマの草案を書いたこともある。残念ながら彼は北海道局の人間ではなかった。その江差線が五月十二日で廃止になる。そのこと自体は2012年の9月頃に発表され、片隅にとめながら、時間が過ぎて来た。

そうこうしているうち、最後の日まで一ヶ月を切ってしまった。
このところそのことがどんどん頭をもたげて来ている。
この十数年、いつかこの話をドラマ化してやろうと思い続けて来た。
ああ、なぜどこかの局に話を持ち込まなかったんだろう。

物語は鉄道が主役ではなく、その鉄路に添って流れる天の川と、その川が流れる上ノ国(かみのくに)という町が舞台である。この界隈は道内でも最も早くから開けた地域で、北海道で一番古い民家なんてのも存在する。倭人もそうだけれど、アイヌがもっとも早くから生活をしていた地域のひとつでもあるらしい。当然双方の民族のぶつかり合いも多くこの地で起きたことだろう。

函館も近くキリスト教も古くから伝来してはずだから、上ノ国界隈、天の川周辺にはたくさんの神様がせめぎあっていたに違いない。言ってみれば上ノ国は神の国ではないか。そんなこんなが物語の底流にある。

「最後の」というと、にわかに人が殺到したりする。
最後の青函連絡船。最後のブルートレイン。最後の…
関わりも、思い入れも、世話になった現実もないのに、暇にあかせて「最後の」を見てやろう、乗ってやろうという輩が三日も四日も前から徹夜で並んだりする。そのお陰で、たとえば連絡船の船長の家族が、お父さんの最後の勇姿を目撃出来なくなったりする。

こんなに人が集うなら、辞めることはなかったのではないか。
そんな錯覚に陥ったりもする。本当に惜しむ人のために野次馬は遠慮しろ!

そんなことを思いながら、江差線の最後を見届けたいと思う自分がいる。
人様を野次馬呼ばわりしたところで、じゃあ自分はどうなのさ、と自己嫌悪がやって来る。

しばらく葛藤が続きそうだ。

http://jr.hakodate.jp/event/esashi/
http://amanogawa.donan.net
http://article.wn.com/view/WNATcc1ec4a14dbaa9c5b878dbb4ad177d4e/


幕を引くということ。2014年04月01日 11:01

三十二年と聞いて改めて勘定してみると、僕が最初の就職で東京の広告代理店に入社して今年でちょうど三十年なので、昨日終了した番組が始まったのは、その二年前ということになる。

当時、僕の会社ではタモリさんと日野皓正さんを起用した男性化粧品のCMシリーズを製作しており、そのブランドから発売される新商品のために、新しいキャラクターを起用した新しいCMを製作することになった。そのチームの末端にいた僕も企画提案に参画させてもらったのだけど、長い長い紆余曲折の果てに、なんと僕が推薦した候補が最終のプレゼンテーションで決定してしまった!

前年に放映されていたドラマ『昨日、悲別で』(倉本聰脚本)に主演した天宮良さんだったのだけど、まだ彼はそのドラマを観た人にしか認知されていない頃で、文学部演劇専攻で倉本聰さんと山田太一さんをテーマに卒業論文を書いた僕くらいしかその存在をしらなかった。実際、上司にもクライアントにも天宮良を知る人は居なかったのだ。

新作CMは世界の日野皓正と新人天宮良の出演で製作することになり、何年も日野さんとコンビを組んでもらっていたタモリさんには降板していただくことになった。あの時の緊張を覚えている。お前がタモリさんに引導を渡したのだから、とタモリさんの所属事務所である田辺エージェンシーに、部長と課長のお伴をして降板のお願いに行ったのだった。

新しいものが華々しく生まれる背後に、こうした地味で胃の痛くなるような作業が存在するのだということを社会人一年生の僕は経験させてもらった。

僕も自分が担当した番組の終焉に立ち会ったことがある。
生命あるものには必ず終わりがやって来るということ。
その瞬間をどのように迎えるか。
どう心構えをするのか。

弥生三月別れの季節を乗り越えて、
四月卯月は出逢いの季節になるのか。

百ひく一は白。2014年03月18日 22:49



父の転勤先の神戸で生まれた僕が横濱に住むようになったのは四歳の頃で、今からちょうど半世紀前のことになる。

父の実家は東京は渋谷区広尾で、今でもお茶屋を営んでいる。
東京タワーは1958年、僕の生まれる前年の開業で、昨2013年に55周年を迎えた。
同じく昨2013年9月で43年の歴史を閉じたというタワー内の施設『蝋人形館』は、だから1970年、僕が11歳の年のオープンだった。

祖母に東京タワーに連れて行ってもらった帰り途、お昼に何を食べたい?と訊かれて “うなぎ” と答えたのは神戸から戻ったばかりの頃と記憶しているから蝋人形館の出来るだいぶ前だと思う。

四、五歳の子供が「うなぎを食べたい」と言ったのが、気っ風のいい祖母の琴線に触れたのか、頼もしい孫と思われたのか、祖母はたいそう喜んで僕を古い江戸の鰻屋に連れて行った。そこでご馳走になったのが、ご飯、うなぎ、ご飯、うなぎ、と二段になっている所謂 “中割れ” という鰻重だった。
おそらく量だって大人のそれで、それをまた平らげてしまった逸話は、しばらくは幼子の伝説のように、折りに触れて語られる祖母の自慢話になった。

その僕が三十になっても四十になっても、広尾を訪ねると祖母はこっそり僕を片隅に呼び寄せ、小遣いを握らせた。「ばあちゃん、もう僕は四十過ぎだよ」と受け取りを固辞しようものなら、眉間にしわを寄せて怒られた。「あんた、いくつになってもあたしの孫でしょ!」

九十過ぎまでお茶屋の店番に立っていた祖母は、自分が七十のときも、八十のときも、九十になっても、「あんた、あたしいくつになったと思うの? ◎十よ、◎十!」というのが口癖だった。

その祖母も数年前から施設のお世話になっている。
最初の頃、見舞いに行くと、いつものようにごそごそと懐をまさぐって、財布を取り出そうとする。九十年もそうしてきたのに、今、祖母の懐に財布は収まっていない。小遣いを渡そうとしても渡せないことを悟ると、もの凄く悔しそうに涙を流す。


さすがに初孫の僕のことも分からなくなり始めた頃、そう思って接していると、突然、北海道は遠いだろう。今日来たのか。今日はウチ(広尾)に泊まって行くのか。夕食は一緒に食べられるのか、と訪ねられたりしてハッとする。傍らに居る叔父や叔母にこの後の(自分も含めた)段取りを尋ねる。突然、そのヒゲはなかなか塩梅がよくて男前だ、というようなことをつぶやいたりする。

初孫はおろか、わが息子やわが娘を承知しているか定かでない様子のときでも、新聞やチラシを見せると、難しい漢字も淀みなく読み上げる。百人一首の上の句を見せると、すらすらと下の句を諳んじてみせる。

その祖母が今日、九十九歳の誕生日を迎えた。
僕は残念ながら駆け付けることが出来なかった。

何年か前、祖母がすこぶる調子が良さそうな日があった。母の一周忌か三回忌で上京した際だと思う。快晴の日の夕暮れ。

僕は祖母に、また東京タワーに連れて行ってくれ、と頼んだ。その帰りにまた “中割れ” が食べたい、とせがんだ。祖母は暮れなずむ施設の窓外を車椅子から見やりながら、今日はもう日が落ちるから、また今度にしよう、と僕に向き直りながらそう告げた。



今年の三月十一日に。2014年03月11日 12:03



誕生の歓びを
誰もが感じたことがあるから
生命はいとおしく 
召されるのは哀しいと知っています

僕らは歳月と共に鈍感になって
そうした機微は 希薄になっていきます

せつなく 苦しいことばかりあるけれど
なんとか切り抜けて 一年生きてきて
ほっとため息をつく
そんな句読点みたいなのが誕生日

やっぱり がんばってみて 良かったね
たまには 自分を褒めてあげよう って
小さく 打ち上げてみる のが誕生日

生命のいとしさと 召される哀しさを
あらためて心に刻むのが誕生日

あなたが 誕生日の意味を 思い出させてくれた
五十を過ぎた僕を 大真面目に祝ってくれた

いくつになっても 照れたりなんかせず
正々堂々 公明正大に 謳うように
祝ったり 祝われたりしてもいいんだ と

二月の末の あの日から 今日まで
この瞬間も 去年も おととしも
僕の魂は 震えっぱなしです

だから今日は 照れず 悪びれず
正々堂々と あなたの句読点を 打ち上げます 

そっちから こちらの様子は 見えてるのかな
テレビでは 朝から ずっと
今日が 特別な日 だと告げています

五十一回目の誕生日 おめでとう!

(四年前、僕の五十一回目の誕生日に
 あなたがくれたケーキです)

人生 邂逅し 
開眼し 瞑目す


深紅のカウントダウン。2013年11月14日 20:29

むかし足を運んだある音楽会のパンフレットにこんなコピーが書いてあった。

“シルクハットも 薔薇の花束も 役に立たないさ”

分かったような分からないような気障な言い回しに歯が浮きながらも、なんとなく気になるコピーだった。裏を返せば、シルクハットや薔薇の花束は、人生のある局面に於いてはかなり役に立つ小道具なのだろうと、脳みその片隅にメモした。

とはいえ、むろんシルクハットの持ち合わせはないし、購入してもそうそう使い途はなさそうなので、もっぱら薔薇の花束を活用させてもらった。でも多くは自己満足に過ぎず、僕や誰かの人生を劇的に変えたりはしなかった。

この花を最初に見た時は、生まれて初めて深紅の薔薇を目にした時の数倍衝撃を受けた。よくぞこんなに鮮烈な色彩を身につけて産まれて来たものだと恐れ入った。この花を駆使して誰かの人生を変えたことはないが、この花に出逢ってから、暮れに押し進むあのせわしなさはもっと切なく、でも、人知れず哀しげな華やかさを身につけた。

追悼の習俗。2013年08月19日 03:15




日本人として日本語の文章を書いているのに、あたかも母国語と同格に外来語を使ってしまう。
タイミングという言葉はまさにそれで、日本語としてひと言で言い切れずについ使ってしまう。
「あることをするのに最も適した時間・時期」という意味である。


映画『おくりびと』は2008年の作品。ずっと観たいと思っていたが、当時母の病状は深刻で劇場に足を運ぶことが出来なかった。その後『おくりびと』が米アカデミーの外国語映画賞を受賞したのは、確か2009年4月に母が他界したちょうど同じ時期だったかと思う。

母の最後のみづくろいをしてくれた典礼さん(小樽典礼)の手際がそれは素晴らしく、その方とまだ観ていなかった映画の話をした。東北を舞台に描かれていたが、あの作品に登場する納棺師の流儀というか流派は自分たちの師匠筋である。そんなことを伺った。母は後に観る『おくりびと』の本木雅弘さんの、まさにその手際で死装束をまとわせてもらった。だからいろいろな意味で『おくりびと』は僕の大切な一本になったけれど、すーっとその世界に入れたのは、母を見送ってからずいぶん月日が流れてから鑑賞したからではないか、と思う。


降旗康男監督の『あなたへ』は昨年八月末の公開だから、まだ一年経っていない。
これも観たいと思いながら(意図的に?)見逃していた作品だった。地上波初放送という触れ込みを目にして、WOWOWやスカパー生活を送る身としては滅多に観なくなった「地上波」テレビの映画をずいぶん久しぶりに観た。つい数時間前のことだ。

亡き妻の「故郷で散骨して欲しい」という言葉に、戸迷いながらも長崎の平戸へ向かう高倉健さんのロードムービーだ。この映画が、ふたつのことを思い出させた。

ひとつは、広告代理店に就職して三年目と四年目の丸二年間製作に関わった某洋酒メーカー1社提供のドキュメンター番組。いや、番組そのものではなく、社会情報局文化情報部という長い名前のセクションに居た、当時僕を可愛がってくれていた番組担当の大物プロデューサーのご指名で、彼の手がけた別の単発ドキュメンタリ-の現場を手伝ったこと。

原爆が投下された八月六日に広島をスタートし、同じく原爆が投下された街のその日、八月九日の長崎にゴールする「国際平和ウルトラマラソン」。平和への祈願を胸に、フルマラソンの10倍の距離を足かけ四日かけて不眠不休で走り続ける驚愕の鉄人を追う企画だった。

ランナー一人ひとりに就いたテレビ局の伴走車とは別に、件のプロデューサー号であるハイエースのハンドルを僕は握っていた。関門海峡を越えて九州に入り、長崎を目指して運転する高倉健さんの目に映る風景が、僕の記憶の風景と重なって、妙に胸に迫った。

もうひとつ。
高倉健さん演ずる刑務官が、退官後に妻と旅するべく自ら改造したワゴン車には、散骨を迷う亡き妻の遺骨が載せられていた。われらが健さんは、いわば妻を載せて妻の故郷を目指していた。

2009年4月に北海道小樽で母を荼毘に付した後、6月の四十九日を契機に僕は母を連れて神奈川県に戻った。母(の遺骨)を抱いて搭乗の手続きを行い、手荷物と化した母を携えて飛行機に乗り、納骨までの一週間の東京滞在中、親戚や友人の家に、あるいはホテルの一室に母を置き去りにして用事をこなすことが出来なくて、分からぬように母を連れて人に会い、打ち合わせをし、居酒屋の足元に置いて酒を飲み、乞われるままに歌を唄った。

さかのぼること一年半前、認知症を発症した母を横須賀の病院から小樽の施設に移送した際には、倉本聰さんの1974年の名作『りんりんと』(東芝日曜劇場/HBC制作)のストーリーが自分に重なった。

老人性痴呆症の母親を東京から北海道の老人施設に連れて行く息子の物語だった。
これは一見、子供が母親を捨てに行く「姥捨」の話に見えるだろうが、実は母親に捨てられる子の物語であることを描きたかった。作者の言葉が胸に迫った。

母は誰も自分を知る人がいない町小樽で息を引き取った。


追悼という習俗を考える。
亡き人を見送ること。故人を思い出し。霊を安らかにすること。
あるいは残された人たちの心を平安にするための儀式。
もっともふさわしい時間、時期とはなにかを考える。