父の終戦記念日。2018年08月15日 15:00

二十八年前の終戦記念日の朝、僕は東京西早稲田のアパートから成田空港を目指して靴を履こうとしていた。そこに横濱の実家の母から電話が鳴って、すぐ帰って来いという。

 

「え、今日から夏休みで今出かけるとこなんだけど…」

「とうさん、危篤よ」

 

さかのぼること三年半前、父は直腸癌の手術をした。

当初は早期発見とのことだったけれど、術後に先生から余命三ヶ月の宣告を受けた。

 

それから父の命は三年以上も永らえ、家族の緊張も和らいできた。

父はこのまま治ってしまうのではないだろうかとすら思い始めていた。

 

なかなか忙しい広告の仕事をしていたし、父のこともあったし、その三年間は長い休みを取ったことはなかったように思う。久しぶりに夏季休暇を申請して、その日からタイへ出かける予定になっていた。ギリギリまで仕事をして前の晩は準備で飛び回っていた。アパートに戻ったのは真夜中だった。今のように携帯電話もなかった頃なので、あと一分母の電話が遅ければ、連絡のつかいないまま僕はタイへ旅立っていただろう。仮にタイのホテルで捕まえられたとしても、お盆の繁忙期に帰国もできず、僕は人非人になっていたに違いない。

 

 

黙祷の時間ころに金沢区の病院に着くと、父方の親戚はおおかた集まっていた。母方の叔母も二人駆けつけてくれていた。暑い暑い日で、蝉時雨がうるさいほどだった。父の意識はなく、荒い息をしていた。今年亡くなった父の一番下の弟が、うわ言を発している父の口元に耳を近づけていた。ほとんど聞き取れない切れ切れのあえぎの中から、四男坊はかろうじて聞き取った、

「兄貴がね、もうレコードが止まった。って」という意味不明な言葉を皆に告げた。

 

 

危険な状態を脱した訳ではなかったものの、しばらく小康状態が続きそうだという医者の言葉に促されて、親族たちは夕闇にまぎれていったん三々五々引き上げていった。

 

 

その頃は仕事の忙しさを口実に、父のことは母に任せっきりにしていた。

海外へ飛び出そうとしていたことも含め、その罪滅ぼしの気持ちもあって、今晩は自分がここに泊まるからかあさんはゆっくり眠ってくれと母を実家に帰し、僕は父のベッドの隣にもうひとつベッドを置いてもらい隣に寝た。

 

 

長年会話のない、絶望的にはぐれた一人っ子と父親の関係だった。

こんな時、意識のない父親にどのように話しかけたものかうまく言葉も見つからなかった。

自分にはただ隣にいることしかできなかった。

 

 

夜中の三時頃、父の容態が急変した。

 

急いでナースコールをし、看護師は慌てて宿直の先生を呼んだ。

僕は急いでナースセンターの公衆電話から母に電話をした。

 

僕らには深夜の交通手段がない。

僕の車はあの時実家に置いてあったのだっけ。

母は車の運転ができない。

無線タクシーも捕まらない。

 

僕の実家は病院から車でものの十分ほどの距離なのに、さっきまで親族一同が集っていた病院に危篤状態の夫のために駆けつける術が母にはなかった。

 

「もうどうしようもないね。あなたに任せたから」

 

電話口の母が静かな口調で言った。

僕は意を決して父の病室に戻った。

 

たぶんその際の処置で結果が変わることはなかっただろう。でも、ドラマなんかでよく見る心臓にショックを与える大きな救命の機械が運ばれてきて、慣れない若い医師がその扱いに窮して、その修羅場で、父が最後の戦いをしているその現場で、家電で言うところの取扱説明書みたいなものと格闘している様は滑稽で悲しく、怒りがこみ上げてきた。

 

 

僕は自分でも驚くような大声をあげ、父親の足にすがりつき、

自分の口が勝手に  助けてください  と発しているのが遠くで聞こえていた。

 

 

 

 

父が静かになってしばらくして、落ち着きを取り戻した若い医師が言った。

 

「朝までに病室を空けてください」

 

まったく想像もしていなかった言葉をぼーっと聞いていた。

もう怒りも絶望もなかった。

ただ白けたような虚無感だけが溢れてきた。

 

 

夜明け過ぎに、ドラマみたいに真っ白い朝もやに包まれた病院の裏口から、紹介された番号からやってきた見知らぬ葬儀屋さんと二人で父親を彼の車に乗せたところで、四年近く続いたその病院との付き合いが終わった。

 

 

 

終戦記念日は、だから、二十八年前から父の戦いが終わった日にもなった。

平成になってまもない終戦記念日だった。

 

 

今日は平成最後の終戦記念日だという。


テラとクリスマス。2012年12月26日 00:00

1980年12月8日は大学二年だと思う。
夕方の教室がぞわぞわと波立っていて、ジョンレノンが撃たれた一報が飛び交っていた。

教室をあとにテラオと外に出て、キャンパスに近いおでんの屋台でコップ酒を飲んだ。東京の師走のすきま風に乗せて、ラジオからは永遠みたいにジョンの曲が流れ続けてた。その晩から「ハッピークリスマス」は特別な曲になった。

以降、12月8日はどこかしらでテラと一杯やるのが決めごとになり、けっこうムキになってつづけた。


三十直前だと思われるので80年代後半のこと、大学と会社の後輩キタゴーと男二人、クリスマスイブに那須温泉郷からさらに奥まった秘境、北温泉にいた。

早くから酔っぱらったやるせなき男二人で、午後九時台に放送していた映画のエンドロールが終わるか終わらぬかのうちにテラに電話をかけた。ヤツが出るや否や受話器にラジカセのスピーカを押し付け、いきなり「ハッピークリスマス」全一曲を一方的に再生して電話を切った。

翌日、「夜更け過ぎに雪に変わった」雨のお陰で思いがけぬホワイトクリスマスを迎えた僕らが狂気の朝風呂の興奮覚めやらずビールを飲んでいると、突然ドアを開けて雪まみれのテラが現れた。ハッピークリスマスのいたずらがあまりにも口惜しく、未明に車を走らせるも雪で立ち往生。山道で愛車を乗り捨てバスに乗り継いでやって来たのだという!


1992年に僕が北海道小樽に移り住んでからは、さすがに12月8日の儀式を続けるのは物理的に難しくなった。

小樽生活三年目だったか、札幌のおでん一平の雑誌原稿に1980年の屋台のエピソードを書き添えた。あんまり素晴らしい店だったので、今年(1995年)の12月8日は一平を訪ねよう。そう書いた。

僕はそれを実践したのだけれど、そのとき一平の電話が鳴った。店主の谷木さんに「星野くん、あんたに」と受話器を渡された。

「やっぱりいたか。シワス!」

テラの声だった。
雑誌の記事を読んでかけて来たのだった。


今年の四月七日。
永い介護の末に母上を見送り、父親の介護も余儀ない状況で、なかなか時間が思うようにならないテラと、ヤツの地元、舎人公園で落ち合った。

櫻と花火を同時に愛でる贅沢な趣向のその夜、寒風の公園でさんざ杯を交わした挙げ句、さらに谷中の墓地の見事な花の下にも足を運び、山手線の踏切際にある吉田類ゆかりの酒場でさらに一杯やって別れた。

そんなこんなで、ジョンが撃たれて32年経った今も、テラとはくされ縁が続いている。

東急リバブルの三浦さん。2012年07月20日 10:38



二〇〇七年八月に母が認知症を発症した後、もう独り住まいには戻れないと医者に宣告され、僕はこの人に母のマンション売却をお願いした。

さかのぼること三年前、当時母が独り住まいしていた横濱の実家売却を老朽化で決断した折り、最寄り駅だった京浜急行金沢文庫駅前の東急リバブルに飛び込んだのがこの人との縁の始まりだった。

母を小樽に呼び寄せる最後の機会と思い奨めたが、母は頑として受け入れず、それどころか、この人に頼んで実家が売れる前の皮算用で横須賀にマンションを購入してしまった。

実家の売却額よりも、母の借金返済&マンション購入額が上回るという悲惨な結果を背負うのは一人っ子の僕しかいなかった。のみならず、仕方なく母のマンションへの引越を北海道小樽から手伝いに帰省した際、引越決行二日前というのに、母は茶碗ひとつ荷造りしていなかった。

今思えば、それは認知症の兆候だったのだろう。引越代の持ち合わせすらなく転居を決めた母の、恐るべき料のゴミの廃棄だけでも引越代とは別に五十万円以上かかった。すべての尻拭いをした僕には悪夢の日々だった。

実家の売却と横須賀のマンション購入の双方を担ったこの人は、引越当日、いきなりブルーに赤いラインの入ったジャージ姿で星野家に現れた。
「何を着ていいか分からなくて押し入れをひっくり返したら、高校時代のジャージが見つかったんで」

不動産仲介屋のこの人が、もくもくと母の荷造りを手伝ってくれたのは二〇〇四年十一月のことだ。

二〇〇七年秋にその横須賀のマンションの売却をお願いした時、この人は金沢文庫から偶然にも横須賀の営業所に移っていた。

母があれよの間に入院してしまった病院のある、京浜急行横須賀中央の駅前にその営業所はあった。

認知症患者の介在する不動産取引には様々な困難がつきまとい、司法書士による書類作成等、さまざまな局面でまたしてもこの人の世話になった。

二〇〇七年の盆に発症した母は九月に入院したのだけれど、間もなく病院からはこれ以上の治療は出来ないからと退去を命ぜられた。小樽では母を入所させられる施設を探し、そのための小樽・横須賀双方の役所の気の遠くなるような手続きに追われ、最終的に母を小樽へ搬送したその年の十一月末までに、僕は小樽−横須賀を十往復した。

小樽と横須賀の往復、入院や入所や引越(マンションの処分/またしても膨大な荷物とゴミ!)に想像を遥かに超える費用がかかるので、マンション売却は至上の命題だった。

この人やこの人の部下たちに一円でも高くマンションを売ってもらうために、病院の近くで朝九時から営業している三冷ホッピーの殿堂で、彼らを接待したこともある。

病院帰りのあらゆる時間帯に立ち寄ったその大衆酒場の店主ともやるせない交流があったのだけれど、昨秋両親の墓参りに立ちよった際、「大衆酒場もーり」はまさかの廃業をしていた。

二〇〇八年三月にマンションの引き渡しの契約で横須賀のこの人の元を訪れたとき、もうこの人と会うこともないのだろうと思った。その直後、横須賀の事務所は閉鎖され、横濱の営業所に移ったとの消息が聞こえた。母は二〇〇九年四月に小樽の施設で亡くなった。


昨夏から現在付き合っているバンド Hemell のギタリストウッチーの横濱・二俣川の自宅に泊めてもらう機会が増えた。同じ頃、この人からまた転勤のはがきが届いた。「東急リバブル 二俣川営業所」。

二〇十二年七月十日、ウッチーの家を失礼して、二俣川駅の反対側にある東急リバブルの事務所を訪ねた。昨秋からウッチー宅に泊めてもらうたびに電話をしていたのだが、忙しい営業職ゆえ何度もすれ違っていたのだ。

人生の局面でいつも僕の近くに現れるこの人は、三浦さんという。四年ぶりの挨拶をして、もうお会いすることもないだろうと思っていた、と告げると、

「僕が近況の便りを出し続ける限り、星野さんとはまた普通に会えると僕は思っていました。あ、いや、確かに、ここまで踏み込んだお付き合いをしたのは星野さん以外にはいませんよ!」

実家の引越の際に三浦さんが着ていた三本ラインの高校ジャージの話に花が咲いた。



六月の追想。2012年06月30日 22:50



強面の役者さんの役域をグッと広げた意味において、「北の国から」のあの役に地井さんを起用した倉本聰さんの功績は大きいと思う。その延長線上に「地井さんぽ」もあった。むろん、本来の人間地井武男の人柄なのだろうけれど。

地井武男さんは俳優座の第十五期生だったという。
俳優座というと思い出すことがある。

僕の敬愛する仲代達矢さんは俳優座養成所の第四期生で、佐藤慶、佐藤允、中谷一郎、宇津井健さんら、錚々たる顔ぶれが同期である。

僕の母は女学校時代に演劇にどっぷり浸かっており、高校の全国大会みたいなものに出場するレベルだったらしい。当時慶応大学の浅利慶太(劇団四季)さんが審査員を務めていた、と母から聞いた記憶がある。

あまりにも家が貧しくて、役者の道を諦めて就職したのだけれど、卒業後、母は俳優座養成所の試験を受け、実は合格していた。そのまま通っていれば仲代達矢さんと同期だった。

その母ももういない。


六月六日は僕が北海道に移り住んでから一番たくさん仕事をご一緒したデザイン会社と印刷所を経営していた S さんの命日だった。

絵に書いたような病院嫌いで、体調不良を半年以上も放っておいた挙げ句、入院してわずか三ヶ月で逝ってしまった。四年前のことだ。

一度は退院して来て、彼の事務所で点滴を背負った状態で二人の企みを打ち合わせした。

最後のホスピスを見舞ったとき、眠っているようなので枕元で奥さんと会話していたら、いつも人を食ったような冗談ばかり言う明るい S さんが突然の大声で、「ホシノさん、ちゃんと聞いてるからねー、ごめんねー、今日はね、今日は駄目なんだ、ごめんねー、また来てねー」と号泣した。

亡くなったのはその直後だ。


六月四日は噺家の古今亭八朝夫人の乃里子さんの命日。昨年のその日は一周忌に参列して来た。ちょっとさびいしい法要だった。

一滴も飲まない師匠を尻目に、いつも女将さんと呑んだくれていた。それどころか、師匠の運転で、浅草、上野、赤羽、また浅草…とハシゴしたこともある。

僕の企みで新富良野プリンスホテルのディナーショーに付き合ってもらったときは、主役のいっこく堂さん、共演のマジックの奇才ルーフさん、狂言まわし役の八朝師匠と、出演者全員が下戸なのに、打ち上げの「くまげら」で女将さんと僕ばかり杯を重ねた。

二年前、芸人さんばかりが集まった板橋区の斎場に駆けつけた時。お弔いと露払いが終わって、噺家としての八朝師匠の「同期」であり、何度か酒席もご一緒した立川談四楼師匠に顔を見てやってと促されて棺の前に。

「一緒に動物園に行こうって言ってたのに」と女将さんに声をかけた瞬間、訃報を電話してくれた時も、通夜の最中も不自然なくらいに淡々としていた八朝師匠の顔がみるみるぐしゃぐしゃになって嗚咽を漏らした。

実は翌月、また僕の仕事でお二人は札幌に来る予定だった。乃里子さんのたっての希望で、空いた時間に三人で旭山動物園に行く約束になっていた。

札幌で僕がお願いした仕事の直前、2010年7月、ふたたび上京した僕を八朝師匠は日本橋室町の砂場に連れて行ってくれた。

師匠の師匠、現代の名人と呼ばれた古今亭志ん朝さんがもっとも愛した蕎麦屋。志ん朝さんのいまわの際の願いで、八朝師匠が病床の志ん朝さんに運んだ砂場の蕎麦。そいつをいただきながら師匠は言った。

「世界で一番大好きだった志ん朝師匠が亡くなってもう十年近く経つけど、泣かないでここの蕎麦を食べられるようになったのはようやく最近だよ」

それから師匠は一本の扇子を差し出して「これあげる」と言った。女将さん、乃里子夫人の愛用品。

「い、いいんですか形見の品」
「いいんだよ、形見はいやってほどあるから。星野さんに貰って欲しいんだ」
「ありがとうございます。大切にします!」
「いいんだよ。大切になんかしなくったって」


六月が終わる。
今年は S さんにも、乃里子さんにも会いに行けなかった。だから追想と追悼の想いで長々書いてしまった。そんなこんなで六月はちょっとつらい。

八月は父の二十三回忌だ。

訃報。2005年12月10日 11:34

昨晩は事務所の忘年会だった。
久々に人前で歌ったり,着ぐるみショーをしたこと、
面白おかしく書こうと思っていた。

痛い風の持ち主のくせに、
やっぱり朝まで飲んでしまった。
荷物を置きに会社に向かうおり、
携帯電話が鳴った。
東京の友人、イナピンから。
胸騒ぎ。
急に激しく雪が降って来た。
訃報だった。

新宿御苑前のアウトドアショップ
(今はスノーボード屋と主は言ってるが
/8月にその主とモンゴルに行った)の仲間。
タマちゃん。
ある時は金髪、ある時はモヒカン。
過激な言動の癖に,妙に優しい男。
叩いても死にそうもない奴だった。

昨年末,発病して、
今年2月、妻子とともに広島の実家に帰っていたこと。
全然知らなかった。
肺がん。
四十歳。
子供は四歳。

イナピンとサラダといっちゃんが、
これから広島に向かうという。

こんなとき、
距離がもどかしい。

無性に腹が立つ。
なぜそんなに早く逝くんだ。
ふざけるな。
お子さんには会ったことないけど、
かわいいかわいい奥さんはよく知ってる。
なぜおいてっちゃうんだ。
役割ちゃんとまっとうしろよ。


だめだ、もう書けません。

合掌。