その時を逃したら、もう二度と逢えないかもしれない、ということ。2014年08月23日 02:31


シンガーの西岡恭蔵さんの前座を務めたのは、富良野の唯我独尊の20周年のステージだから、今調べた上川総合振興局ホームページの宮田さんの店の情報(創業1973/昭和48年)が正しければ、+20で、1993(平成5)年のことになる。21年前? え、そんなになるかな?

富良野駅前の「傷つく森の緑」で関係者が打ち上げしていたとき、僕は恭蔵さんに助けられた。
僕らのライブを観たお客さんが隣で飲んでいて、僕にさっき唄ったオリジナル曲を唄えと言う。
ただでさえ、恭蔵さんの前座で唄うというあり得ない体験に緊張し尽くした後だというのに、そのご本人も本番を終えて寛いでいるプライベートな打ち上げの席、常識的に言っても、またしても恭蔵さんを前にしてという意味に於いても、僕が唄える訳がない。

丁重にお断りしたのだけれど、相手は酔っていて相当にしつこく、場は険悪なムードになりかけていた。

その時だった。恭蔵さんがいとも軽やかに言った。「ほんなら僕が唄いましょ」。
恭蔵さんが引き取ってくれたお陰ですべては丸く収まり、歌自体も晴らしかった。
恭蔵さんのその自然体は僕には衝撃的で、僕は素敵なお兄さんにひと目惚れした少女のマナコになった。

その晩は恭蔵さんも僕も主宰者である唯我独尊の宮田さんの自宅兼民宿に泊めてもらうことになっており、打ち上げ後の帰り途、数台のクルマに分乗したのだけれど、偶然ボクの車に恭蔵さんが乗ることになった。ひと目惚れ状態の僕は舞い上がるような気持ちだった。

その時、北海道をツアーで回っている恭蔵さんが、僕の隣で独り言みたいにぼそっと言った。まだ来たばかりなのに、いったん東京に帰らなくてはならなくなった。カミさんの具合がよくないらしい。

今思えばあの富良野は恭蔵さんにとって、それから4年後に亡くなる奥さんで作詞家KUROさんの病気が発覚した時だったと思う。そのことを部外者で最初に聴いたのは僕だったのではないか。

それから僕は恭蔵さんと手紙のやりとりをするようになった。
小樽のライブハウス一匹長屋に恭蔵さんが出演した際にはもちろん出かけたし、ライブ終了後には共演したギターの関ヒトシさんと三人で飲み明かした。

新アルバム発売の際には、ジャケットにコメントをもらった。

櫻が満開の東京でKUROさんが亡くなった、そのちょうど一年後、恭蔵さんは東奔西走してKUROさんの楽曲の提供を受けたアーティスト二十数名を集め、『KUROちゃんを謳う』と題した追悼コンサートを世田谷パブリックシアターで開いた。僕も小樽から足を運んだ。恭蔵さんはそれをたいそう喜んでくれた。

その後しばらくして、たまたま見かけた音楽雑誌に恭蔵さんのインタビューが載っていた。
KUROさんの一周忌まで、自分に悲しむ暇を与えないように追悼コンサート実現に没頭して来たけれど、それもすべて終わって、今、自分は抜け殻のようだ。生きる意味を喪失したような気分になっている。そんな内容だった。

これはいけない、と思った。

恭蔵さんの音楽に触れ、実際にその人となりを目の当たりにしてみると、恭蔵さんのえも言われぬ優しさは、KUROさんへの深い深い愛情から発せられているのだと思えたから。とにかく、もう一度恭蔵さんに逢いたいと思った。

けれども日々に追われ、時間は過ぎて行った。
追悼コンサートからまた一年、東京の櫻が三たび満開になったある日、新聞を見て僕は腰が抜けた。
恭蔵さんが自ら命を絶った。衝撃? そんな陳腐な言葉であの時の僕の驚きと哀しみは言い尽くせない。

恭蔵さん、あなたは嘘をついた。
KUROさんが亡くなってから発売された恭蔵さんのアルバム、結果、遺作となったアルバム『Farewell Song』のジャケットに貴方は自筆で書いてくれたじゃないか。恭蔵さんの便りにはいつも、その人柄がじかに伝わって来るような優しい字面の言葉がしたためられていた。

『愛は生きること』

こういう言葉を、歯が浮かずに僕に届けてくれる人を、僕は恭蔵さん以外に知らない。
でも、あなたは嘘をついた。


あの時、無理やり恭蔵さんに逢っていたとしても、恭蔵さんの人生がなにか変わる訳がない。僕の中で恭蔵さんはもの凄く大きな存在だけれど、恭蔵さんの心の中に僕が大きく住んでいたと思うほどうぬぼれては居ない。でも、もう一度恭蔵さんに逢いたかった。あの優しさに触れたかった。

逢いたいと思った人には、その瞬間に逢いにゆかなくてはいけない。
行かなくてはならない場所には、一刻も早く訪ねてゆかなくてはいけない。
僕の人生観にその想いが大きく激しくもたれかかって来た。

そうして少しでもそれを実践して生きていかなくちゃと思って来た。
なのにそれからたかだか二十年の間にも、僕は何度同じような後悔を繰り返しただろう。
三日前にも、僕が北海道に移り住むきっかけのひとつを作ったとある人の終焉に立ち会うことが出来なかった。恭蔵さんの教訓を活かせなかった。母の時だってそうだ。ピエールの時だってそうだ。


僕が愛した西岡恭蔵さん。

恭蔵さんはたくさんのアーティストに楽曲を提供していた。
沢田研二も松田優作も矢沢永吉だって、恭蔵さんやKUROさんの曲を歌っていた。
恭蔵さんの名曲『プカプカ』がどんなに凄い歌かは、カバーをしたアーティストの顔ぶれを見れば分かる。

大塚まさじ(ザ・ディランII)
大西ユカリと新世界
桑田佳祐
大槻ケンヂ
つじあやの
福山雅治
奥田民生
原田芳雄
桃井かおり
クミコ
泉谷しげる 
大西ユカリ
清水ミチコ
宇崎竜童 

…まだまだ居る。


合掌。

櫻とお盆の時分にはどうしてもあなたを想い出すので。

海老澤先生と僕4(完結編)2012年06月03日 00:33


    (サントリー音楽文化展1991 モーツァルト没後200年記念 図録)

海老澤先生のお伴をしたヨーロッパの旅から帰って、僕らは早速図録編集や、ミュージアムグッズのポスター、ポストカード、テレホンカード等の制作作業に取りかかった。さらに展覧会全般の広報活動、CM制作、オープニングセレモニーの進行から、ウィーン学友協会やザルツブルグ国際モーツァルテウム財団から借り受ける国宝級の出展物への保険などの事務作業、実際の展示作業など、ありとあらゆる業務に携わった。

オープニングを含む会期中には、ザルツは「大きな朝食」のアンガーミューラー博士やウィーン学友協会の学術部長らが立ち会いに来日した。海老澤先生、そしてアンガーミューラーやオーストリア駐日大使や主催のVIPがテープカットするセレモニーは僕が台本を書いて現場進行もした。

関連イベントとして展覧会期間中にサントリーホールで開催されたマーラーのシンフォニーの演奏会や、海老澤先生を中心に、マーラーゆかりの指揮者、故朝比奈隆さん、作曲家の三枝成彰さんらを招いたシンポジウムのディレクションもした。

とある日は皇太子殿下が来場されることになって、SPを伴い「赤坂御所を何時何分何秒発、どこぞの角を何時何分何秒に曲がり、このエレベータの右から何番目で時何分何秒に昇降」みたいなものものしい戒厳令のような状況下、出展物をひとつひとつマンツーマンで皇太子にご説明し館内をまわられたのも海老澤先生だった。

海老澤先生にお供し、ザルツブルグで「大きな朝食」に加えさせてもらった前段の旅があったことが、どれだけそうした諸々にプラスに作用したことか。

1989年4月4日からの会期中は毎日サントリー美術館に詰めて、一日二回会場内で行われる生演奏のアテンドや、基本的な運営作業、入場者数の把握やグッズ販売、その売り上げ管理などに追われた。日常の広告代理店業務と別個にである。

旅から半年後の1989年5月、1月半続いた展覧会最終日、並みいる内外のVIPに交ざって、僕はフェアウェルパーティに出席させていただいた。帰国以降のさまざまな場面を考えれば、旅の最中の「大きな朝食」や「チェコのディスコホテルの一件」が、いかにそれぞれの立ち位置を度外視した破格な出来事であったかを思い知らされた。

けれどパーティの席上、参列者の中で明らかに格下な僕にまたしても気を使い、世界のエビサワが話しかけ、VIPたちに水を向けてくださった。「ホシノさん、ホシノさんもよくがんばりましたね。縁の下の貴方の活躍なくして、この展覧会の成功はありませんでしたよ。欲を言えば、ホシノさんはもう少し語学(ドイツ語も英語も流暢にお話しになる先生に!)を勉強するといいですね」

(あ、はい、ブイヨン・ミト・アイ!)

その翌日、展覧会場の撤収中に僕はストレス性の急性胃腸炎と過労で緊急入院した。



マーラー展から三年後、僕は当時の会社を離れると同時に所帯を持つことになった。件の展覧会シリーズの10年は、ほぼ僕の在籍期間と重なっていた。社長の来賓挨拶以下、その会社の社員食堂化するのが通例の披露宴に、僕は今後もずっと個人的に付き合って行きたいと思うごくわずかの社員しか案内しなかった。

その時はまだ、その数ヶ月後に自分が北海道民になろうとは、僕自身が微塵も考えてはいなかったけれど。

祝電披露で、倉本聰さんのCM制作で知り合った富良野のくまげらの店主森本毅さんの文面が圧倒的に素晴らしく、かなり僕を危うくしていた。それを隠すために能面になって続く電報を聞いていると、しばらくして耳に入って来た言葉_。

「ホシノさん、あなたと一緒にヨーロッパへマーラー詣でに行ったことが思い出されます。これはささやかな わたくしからのお祝いです。おめでとう」

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ピアノとオーケストラのためのロンド イ長調 K.386
第9葉(第155小節〜第171小節)自筆譜復刻版
海老澤敏 所蔵


これで僕はとどめを刺され、ひな壇の上で完全に駄目になった。
隣のひとをさしおいて、かっこ悪いっちゃない。

いや、それから20年以上経った今これを書いていて、突然、鼻の付け根の奥のあたりが渋いようなぬるいような危ない感じに襲われてしまっている。画面が滲んで来る自分がいる。

2007年6月2日に帯広で開催された北海道モーツァルト協会『祝祭モーツァルト(帯広とかちプラザ)』をひょんなことからお手伝いをした際に、実にお久しぶりに先生と秘書の渡辺千栄子さんにお目にかかった。

その再会のお陰で、2008年3月28日にホテルオークラで開かれた『海老澤敏先生の文化功労者顕彰をお祝いする会』にお招きいただき、飛行機に乗って会場のホテルオークラに飛んで行った。

それらの時も、あのフェアウェルバーティ同様、顔ぶれからして明らかに場違いな自分自身を自覚するのだけど、直截言葉を交わさせていただく以前に、遠くから先生の姿を目にしただけで、今と同様に鼻の付け根の奥のあたりが渋いようなぬるいような危ない感じに襲われてしまうのである。


そのお祝いの会の際の参列者への記念品がCD『モーツァルト生誕250年祝年 小川京子 二つのモーツァルト』だった。そうして6月3日日曜日の札幌コンサートホールKITARA 小ホールのプログラムは、
『小川 京子 Piano Recital 〜リラの花咲くときに〜』(16時〜)

海老澤先生がプレトークでステージに立たれるという。

先生の奥様の小川京子さんは、いまやわが町となった小樽のご出身であることを、お目にかかって四半世紀経って先日別の方から教えていただいた。恥ずかしながら、僕は知らなかった。なんという…。

先生、明日、KITARAへ。
                            (終)


海老澤先生と僕22012年06月02日 22:23



明日6月3日日曜日、札幌コンサートホールKITARAで海老澤先生の奥様である小川京子さんのピアノリサイタルがあり、海老澤先生もステージのプレトークで出演すると聞いた。僕は嬉しくて即チケットを購入、恥ずかしながらきちんと整理もしていなかった24年前当時のスナップを引っ張り出してみたのだ。

オーストリア、ドイツ、北イタリア、チェコスロバキア(当時)をマーラーの足跡を追いかけてまわる。たとえば出展物にマーラーの生家の絵葉書があるとすると、われわれは現在のその場所を訪ねて写真におさめ、図録にその両者を並べて比較するレイアウトを作る。という具合に、出展物を元に海老澤先生が描いた編集プランにしたがって旅は進行した(上の写真はマーラーが避暑に訪れたトーブラッハという地で。「大地の歌」 、交響曲9番、10番を書いたマーラーの建てた夏の作曲小屋と海老澤先生)。


ある晩、やや遅くにザルツブルグに到着。翌朝、僕らは前述のザルツブルグ国際モーツァルテウム財団の総裁、ルドルフ・アンガーミューラー博士から彼の自宅の「大きな朝食」に招かれた。朝っぱらからソーセージにワインにチーズ…その日の午後は仕事にならないくらい、信じられないほどのおもてなしだった。海老澤先生のお伴をさせてもらっていたからとはいえ、信じ難い展開だった。究極の役得だ!


かのモーツァルト研究の総本山の総裁といえば、きっとすんごくえらい人なのだろうけど、大柄できさくなアンガーミューラー博士はエビサワが 来てくれたのが嬉しくてたまらない、という様子で、奥様と共に終始笑顔を絶やさないホストぶりだった。本当にエビサワを愛してやまない、そんな風情が強く印象に残った。と同時に、広告企画屋風情に理解し尽くせる筈のない、海老澤先生の学者としての存在の大きさを垣間みるようで、さらにプレッシャーは高くなった。


この総裁宅に於ける「大きな朝食」以外は、毎朝ホテルで先生の好物ヴイヨン・ミト・アイ(生卵を落としたコンソメスープ)と珈琲で始まる一日の繰り返しにすっかり僕も感化されて、どこへ行っても「ヴイヨン・ミト・アイ!」と「ヴィッテ(エクスキューズミー)」と「ツァーレン(お勘定!)」を連発し続けたロケマネージャー星野だった。
                           (続く)