嵐の後_Kさんのこと。2012年11月28日 21:08


この三年で、Kさんは三回小樽(札幌)に来てくれた。

最初は三年前、自宅で執り行った母の通夜の際。
横須賀の病院から、自宅にも寄れず、小樽の僕も家すら経由できずに小樽の施設に入り、そこで逝ってしまった母に、こちらの知り合いは皆無だった。

読経が終わって振り返ると、思いがけず大勢見送りに来てくれた北海道での仕事関係者に混ざって、僕から一番遠い台所の壁を背にして、いるはずのない東京の友人であるKさんの顔が見えた。

「何度も話を聞いていたのに何もしてやれなかったから、せめて線香をあげにきたよ」

静かに献杯して、翌朝一番六時の列車に乗って新宿御苑の店を開けるために帰って行った。

二年前は、僕が企画した吉田類さんの講演会&トークショーを札幌共済ホールで開催したとき。

前の日に来てくれたKさんとイベント当日の朝まで飲んだ。ひさびさに僕が頑張ってる姿を見るだけのために駆け付けてくれた。六百人の聴衆を前に僕が司会進行まで務めていたのに驚いて、

「あんな大役と知っていたら、朝までなんてつき合わせなかったのに…」とやたら恐縮していた。

そして昨晩。
風雪でたくさん欠航したにもかかわらず、東京からの便に奇跡的に乗れたKさんと会えたのは、午後六時過ぎの小樽駅。

大好きな酒場、小樽花園の中島さんの「樽」を出たのは午前一時。それから僕の家で続きを。今回はまたしても岐路を迎えている僕の顔を見るだけのために来てくれた。

Kさんは母の仏壇の場所を尋ね、その前に座って手を合わせ、線香をあげた。三年前の情景が想い出されてKさんの背中がじゅっと滲んだ。それから、二年前と三年前の来訪の話になった。

べたべたをきらう彼に、僕なりにさらりと、でも万感の思いを込めて礼を言う。少し間があって、小さな声でKさんが言った。

「◎◎(Kさんの名字)は、大切なものには、礼を尽くすよ」


Kさんは、今朝早く新千歳に向かった。

屋台のジョン・レノン。2005年12月08日 07:35

25年前の今日、第二外国語のフランス語の教室は、
ジョン・レノンの訃報で沸き返っていた。
その晩、学友のテラオと大学の近所のおでんの屋台で追悼した。

大根、ちくわぶ、コップ酒。
それから、東京、師走のすきま風。
ラジオからは終わることなくジョンの歌声が流れていた。

それから、毎年12月8日はテラオと一杯やるのが決めごとになった。
お互い就職をして忙しくなってからも、結構無理をして長く続けた。
ただ、13年前に僕が北海道小樽に移り住んでからは、
「しわす!(12月の挨拶)」と、
電話やファクシミリでの交流に留まっているけれど。

僕が道民になって3年目くらいだったろうか。
だからかれこれ10年前。
雑誌の取材で、札幌の素敵なおでん屋に出逢った。
その記事の中に、1980年の12月8日のことを書いた。
だから、ことしの12月8日はこの店に来よう、と。

僕は実践して、10年前の12月8日、「おでんの一平」のカウンターにいた。
少し酔いが廻ってきたころ電話が鳴って、
店主の谷木さんが「ホシノ君に」と受話器を手渡してくれる。
え? ここにいることは誰にも言っていないのに…。

テラオからだった。

記事を読んでくれたテラオが「たぶんあいつのことだから」と、
誌面でご紹介していた番号にかけてきたのだった。
電話の向こうから聞こえてきた声。
「やっぱりいたな。しわっす!」


今晩、テラオに25周年の電話をしよう。

追記。
12月8日は、真珠湾攻撃の日、コメディアン三波伸介の命日でもある。

十三年に。2005年12月02日 07:44

風の色がお手伝いさせてもらったホームページ「JAL SKI 2006」内のコンテンツ『北海道を味わいつくす!』の第一弾が12月1日にアップしました。

http://www.jal.co.jp/jalski/

にアクセスして、『北海道を味わいつくす!』の窓をクリックしてね。

師走の初日は、このページの第二弾の取材で、北海道で最も古い造り酒屋のひとつである北の錦(小林酒造/小林本店)直営の酒亭を訪ねました。
「地の酒、地の鶏 ○田(まるた)七番蔵」。かれこれ10年前、こちらの酒蔵に雑誌の取材でお邪魔したことがご縁で、2年前の創業にあたり、店名のネーミミング、ロゴ制作、リーフレット、チラシから品書きなどの印刷物全般の制作をお手伝いしたのです。その時の模様は、風の色ホームページ
http://www.kazenoiro.co.jp/
の「トピックス」コーナーのバックナンバーをご参照ください。



「七番蔵」オーナー、四代目小林米孝社長に一杯やりながらお話を伺った帰り道、第一弾のページ内でご紹介したバー「ドゥ・エルミタアジュ」にご挨拶に行った。

札幌の重鎮、今年47周年を迎えた「BARやまざき」の山崎達郎さんの門下生であるバーテンダー、中田耀子さんの店。もう説明をする必要もないくらい、バー好きには知らない人はいない名店である。

北海道に移り住んできた13年前、現在の風の色のボス山野に連れられて、初めて訪れた札幌のバーが、昨年10周年を迎えた「ドゥ・エルミタアジュ」に先行する姉妹店「きゃふぇ ゑるみたあじゅ」だった。

その日、大好きだった俳優の笠智衆さんが亡くなったニュースが日本中を駆けめぐっていた。「きゃふぇ ゑるみたあじゅ」のカウンターでもそんな話題がひとしきり続いて、俳優でもある山野と追悼の献杯を捧げたのを覚えている。

そして昨晩、久しぶりにゆっくりお話させてもらった中田さんに、改めてそんな話をした。
「そうですか、13年ですか。でも、星野さんとお逢いしたのは、もっと以前のようがします。そうそう、今日『きゃふぇ ゑるみたあじゅ』の方は、ちょうど23周年を迎えたんですよ」と中田さん。

そうか、そんな記念日に中田さんを訪ねてよかった。

カウンター越しの会話とカクテルの発注は、お目当てのバーテンダーにお願いしたいもの。中田さんを含めて3名のバーテンダーが対応してくれるいつも忙しいこの店で、僕はこの夜、この店の主である中田さんに3杯のカクテルを作ってもらった。

その3杯目のカクテルを、中田さんは少し多めにシェイクして、僕のグラスと自分の小さなグラスに注いだ。そして、僕の前にグラスを置いた後、自分の小さなグラスを僕の方に掲げてこう言った。

「13年にー」




※ 改めて調べたところ、笠智衆さんが亡くなったのは、平成5年(1993年)3月16日(享年88歳)。僕が小樽に移住したのは、平成4年7月で確かに13年前なのだが、札幌で最初にバー「きゃふぇ ゑるみたあじゅ」を訪れたのは、正確には年が改まってからだった。写真は、あまりにカンゲキした僕が中田さんにお許しをいただいて、携帯電話のカメラで写した1枚。

ホテルドローム。2005年11月29日 23:18

今僕が北海道に住んでいるきっかけのひとつは、
藤門弘さんの存在かもしれない。
知る人ぞ知る、アリスファームのオーナー。夫人は宇土巻子さん。
1974年に岐阜県・有巣の里で「田園生活」を提唱し、家具工房、染織工房、農業などを営む「アリス・ファーム」を設立。10年後、新天地を求め北海道仁木町に移住。
外遊びの強者であり、すごい仲間がたくさんいて、自らの体験を本に書く男。

一方、話は変わるが、10年前のオープンから一度は泊まってみたかった赤井川村のホテル、ドローム。
鉱山の跡地の百万坪の敷地。まわりには白樺の林にヤマメが泳ぐ白井川。そこに鉱山時代の古材と石で造った山小屋風の建物。館内には北欧の古い農具や家具。部屋数11の小さな宿。
風の色でも何度かロケで使わせてもらっていた。

昨年末、藤本美貴さんの写真集の撮影場所にドロームの暖炉を提案しようとしたのだが、営業が停止されていた。やがて、風の色の若頭・宮嶋総士のリサーチで、ドロームの所有者が藤門さんに変わっていたことが判明。僕の2つのあこがれがひとつに合体したのだ!

かくして今年2月15日からドロームは営業再開。
藤本ミキティの撮影も無事終了。僕は現場に行けなかったのだが、
藤門さんは終始撮影にお付き合いくださったと聞いていた。

写真集が東京の出版社から送られてきて、ソーシがそれを藤門さんに届けるという。僕は「お願い、連れて行って!」と懇願した。

3月12日、広大な敷地の赤井川村側にあるアリスファーム本部、藤門さんのご自宅をソーシと共に訪ねた。自ら広い広いご自宅を案内をしていただいただけでも舞い上がっていたのに、その後で目がつぶれそうな幸運に遭遇した。しばらく休止していたが今年から再開するという、アリスファーム恒例の「クロカンスキー大会」のお誘いを受けたのだ。その名前からすると体育会系の催しの様だが、要は前夜祭と称した宴こそがメインイベントであるらしい。
顧客とうちうちのお仲間だけに声をかけるということだが、今年の参加者を伺って三たび仰天! 一般の方に混ざって、カヌーイスト・野田知祐、モンベル社長・辰野勇、作家・夢枕獏…。

野田知祐さんの著書は、僕の北海道行きを激しく後押しした。
一度、番組撮影でいらしていた野田さんと、清流・歴舟川を一緒に(といっても、もちろんほかに大勢いたのだが)カヌーで下り、酒を飲みながら話をしたことがある。このときも、今は絶滅した「男臭い男」に雷鳴に打たれたようになり、僕はコチコチに緊張した。素敵だった。



3月26日の晩、ホテルドロームで宇土巻子さんの手による、地元の食材を使った感動的にうまい料理をいただきながら、野田さんや辰野さんや夢枕さんと同じ酒を飲んでいた。まさにドローム(夢)のようだった。

今日のドロームはそれ以来だった。
撮影の合間を縫って、久しぶりにお逢いした藤門さんに、8月に行った内モンゴルの話などをした。藤門さんは、かつて40日かけて外モンゴルの川をカヌーで下ったときのことを教えてくれた。

僕は調子に乗って、かつて東京の広告代理店にいた時分に携わっていたTBSのドキュメンタリー番組のプロデューサーから言われたことを話した。僕がその会社を離れて北海道小樽に移り住むことを告げた時のこと。
そのプロデューサーは小樽出身で、小樽に行くのなら、近くの仁木(余市と言ったかもしれない)という町に藤門弘という男がいるから、自分から聞いたと言って訪ねたらいい。面白くて凄い奴だから、何か力になってくれるかもしれない、と。

当時の僕に、それを実践する勇気はなかった。
あんなに憧れていたのに。
今日は、そのことも藤門さんご本人にお話しした。

あの時、まだ、なにを生業にするかも決まっていないのに、
ただ小樽に住むことだけを決めてしまった時、
もしも言われた通り藤門さんを訪ねていたら、
その後の流れは変わっていたかな。

とにかく、それから13年経って、
僕はようやく藤門さんに逢うことができた。

(写真は夏のドローム。今はすでに雪に埋もれている)

晩春のお仕事。2005年05月29日 07:13

ようやく花見をしている訳だけど、五月末は、普通はもう晩春でしょう?
北国では、花が咲き始めるとホームセンターも俄然にぎわいを増してくる。

最近週末にしたこと。
ガレージ内に単管を利用して立体的な棚作り。
片隅に追いやられていたラベンダーの植え替え。
買ってきたままになっていた花の植え込み。
針葉樹の高枝払い(高枝切り鋏ってスゴイ)。
フェンスと枝折戸に再利用していたが、昨秋の大風で大破した、
大正時代の「葦(よし)戸」の修復と塗り替え。
調達してきたまま放置していた枕木で第二デッキ作りの再開。
近年朽ちてきた、自作藤棚の修復。

足の甲に枕木を落としたり、
櫻の枝で危うく目を突き刺しそうになりながら、
汗を流し、腰を痛め「やれやれ」とか言いつつ、
それでも朝5時過ぎからそわそわ庭に出てしまう、
春の胸騒ぎ。

そう、
ゆるゆると、
こんなことするために、
横浜から小樽に移り住んで来たんだから。

桜の花の満開の下2005年05月21日 22:09

桜前線の移動につれて、胸の辺りがチクチクした感じになって、妙にそわそわ落ち着かない男になってしまう。もともと横浜人の自分としては、北海道に移り住んで以降、前線到着までの約1ヶ月の「時差」が非常にもどかしい訳。先々週土曜、先週土曜、日曜と続けて小樽の花を愛でてあげたのだけれど、5月20日過ぎだなんて信じられる? 今年の時差はさらに大きくなっちゃった。

北海道では何かあると必ず「ジンギスカン」ということになるのだけれど、もくもく煙がでて花に申し訳ない感じがするのと、どうしても肉の焼き加減に気をとられて、目線が下へ下へ向かう感じが未だに許せない。大体花を愛でてない! 仕事関係の花見では、一昨年まで道産子の慣例を無視して、一方的に「ジンギスカン禁止令」を出し(つまり、火気厳禁)、必ず手作りの一品と酒を持ち寄って、交換しあって飲み食いする。そんなルールでやっていた。が、今年はまあ道民に敬意を表して「ジンギスカン有り」でやったのでした。

東京から(実家は横浜。昨年秋、42年目にして横須賀へ)やって来て13年経過したのだけれど、いつ終わるとも知れず、ひたすら肉を焼き続ける純正道民たちの「ジンギスカンそれだけで」あんなに楽しそうにはしゃいてしまう様子を見て、これは血なのだ、と。微笑ましくも不思議な気がして…。やって来たからには正しい道産子、正しい小樽人になろうという気持ちと、ときどき「江戸的」なるものが非常に恋しくなって(両親は東京人です)、羽田から「神田まつや」に直行して、昼間から「そばや酒」してしまう自分とがいつもせめぎ合っているのであった。